秋元

父は江戸っ子、母は会津っ子のハーフです。父方の祖父は大東亜戦争で散華、母方のご先祖は会…

秋元

父は江戸っ子、母は会津っ子のハーフです。父方の祖父は大東亜戦争で散華、母方のご先祖は会津戦争にて奮戦。靖国神社にはたまに行きますが、とても複雑な想いで参拝します。それがメンドクサイ思考回路を形成しているような(汗)

最近の記事

会津戦史 あとがき

ひとつ書いておかねばならぬことがあります。 西軍には西軍の物語がある、これは認めなければいけないということです。西郷隆盛の地元には彼を英雄として見る歴史物語があるでしょう。それと会津の歴史観が違うことは決して矛盾しない。大事なことは、お互いがその違いを認めることではないでしょうか。 決して価値相対主義に陥ることなく、お互いに譲れないものがある、と認め合うことがむしろお互いを理解することになる、そう僕は思います。 さてさて、最後に 会津武士道は、命より大事なものは何か、

    • 会津戦史 後日譚 その後の会津武士道

      9月22日に会津が降伏すると、すぐに戦後処理が始まり会津藩士ら東軍兵はひとまず塩川と猪苗代に収容され、そこから藩士は東京へと移送されていくのですが、 この間、会津城下に累々と横たわる東軍兵の遺体を埋葬することは禁じられました。ある農民が飯盛山で果てた白虎隊士を哀れみ埋葬すると、なんと西軍に呼び出され「墓を暴いて遺体を晒せ」と命令されたそうです。 この無慈悲にして無道な見せしめは、間もなく訪れた冬によって雪の中に埋もれていきました。しかし春が来て雪が解けると、遺体が現れひど

      • 会津戦史 慶応4年9月22日

        慶応4年【明治元年】9月22日(新暦で11月6日) 朝、鶴ヶ城城門に白地に降参と書かれた大きな旗が掲げられました。これにより全軍戦闘停止命令が出され、ついに会津は降伏することとなりました。 城下は焼かれ、遺体は放置され、悪臭が漂っていましたが、空だけは静かに秋の景色を映していました 早速行われた開城式では、赤い毛氈に洋装で椅子に腰掛ける西軍司令官(板垣退助ら)に袴姿で土下座した容保公が謝罪文を提出するという屈辱的な情景となりました。 藩士らは、この赤い毛氈を切って持ち

        • 会津戦史 慶応4年9月16日~9月20日

          9月16日(新暦10月31日) 手代木、秋月、小森は、降伏の使者となって鶴ヶ城を出発しました(異説あり)。彼らは米沢藩を頼っていったのですがその米沢藩に拘束され監禁されました。 これは会津藩の正式な降伏と受け取られなかった、とする説があります。 異説では、彼ら(そちらでは、手代木、秋月、桃澤の三人)が訪れたのは20日となっています。説によって、その場所も全然違うようです。 ひとまずここでは前説をとって16日に三人が城を出て拘束された、としておきます。 一方、城外では萱

        会津戦史 あとがき

          慶応4年9月15日

          9月15日(新暦10月30日) 熊倉方面から転戦してきた萱野隊は、一ノ堰にて西軍と大激突しました。この戦いもやはりジリ貧となり敗れていくことになるのですが城下町での戦闘が開始されて以来、萱野権兵衛は転戦に次ぐ転戦で北から南まで縦横無尽に暴れまわったのです。 佐川官兵衛と萱野権兵衛、 この二人の活躍もまた会津の籠城を助けたのでした。 この日、萱野が受け取った降伏勧告が松平容保の元へ届けられました。 降伏して開城か、城を枕に討ち死にか 養子であるにもかかわらず容保公は藩士

          慶応4年9月15日

          会津戦史 9月14日

          9月14日(新暦10月29日) この日は、西軍大砲撃の日となりました。小田山からはアームストロング砲が火を噴きました。西洋の最新鋭兵器の威力がいかんなく発揮されたのです。砲弾は小田山だけでなく各方面から撃ち込まれました。城中にいた山本八重子はのちに、 火天を頂き、火の海に立っているようでした と語っています。 この砲撃の中、八重子は夫とともに果敢に応射!一時小田山の砲台を沈黙させるほどの働きをみせました。 しかしさすがのこの反撃も、形勢を逆転するには至らず、お城には砲

          会津戦史 9月14日

          会津戦史 慶応4年9月11日

          9月11日(新暦10月26日) 北方へ転戦していった萱野隊は熊倉へ到着し、片門村から分かれて北方から侵入してきた越後口西軍と激突しました。 北方からの攻略は、8月28日に片門攻略のときに別れた軍で、手前の阿賀川を渡河し只見川をよけて北方から会津盆地を目指していました。9月2~10日まで続いた大規模な戦闘で西軍は大鳥圭介隊や長岡藩兵らに勝利し、11日に熊倉へ到着したわけです。 勢いに乗っていた西軍でしたが、油断もあってか萱野隊決死の攻撃に死傷者が続出し退却を余儀なくされまし

          会津戦史 慶応4年9月11日

          会津戦史 慶応4年8月31日~9月6日

          8月31日、日光口の西軍はついに大内宿に到着、一泊して翌9月1日出発しました。そして9月4日、ついに会津盆地に侵入し本郷に到着しました。3つのルートに分かれていた西軍でしたが、白河口に続き日光口が到着したわけです。 9月5日(新暦10月20日) 本郷に到着した西軍はついに大川渡河に成功、会津城下町に迫りました。彼らが住吉に集結しているところを、 遊撃隊となっていた佐川隊が急襲! 予想外の襲撃に慌てた西軍兵は武器や食料を置いて敗走しました。佐川隊はここで得た武器や食料をお

          会津戦史 慶応4年8月31日~9月6日

          会津戦史 番外編 松平容保と西郷頼母

          ※この記事は、あくまでも秋元個人の考察になります。 松平容保と西郷頼母 幕末の会津藩においてこの二人の対立は、尊王か佐幕かはたまた開国か攘夷かなどという実は単なる政治闘争とは違い、思想哲学的に非常に高度な対立なのです。 現代人が単なる現代人の感覚でこの両者を推し量ってみても、なんの真実も見えてきません。多くの本を読みましたが誰も理解していないので、最重要項目として解説を行いたいと思います。 かたや養子として会津藩藩主となった松平容保、かたや藩祖保科正之と血が繋がる会津

          会津戦史 番外編 松平容保と西郷頼母

          会津戦史 慶応4年8月29日

          8月29日(新暦10月14日) 会津兵は反撃に打って出ました。鶴ヶ城内から佐川官兵衛率いる決死隊1千名が融通寺町口、桂林寺町口から出撃し、西軍諸兵に猛攻をかけました。 隊は二手に分かれ敵を挟撃する形となり、槍対銃という構図ながらも会津優勢となり、戦闘は城の北西にある泪橋まで広がり、一時ここを占領することに成功しました。 西軍諸兵は長命寺に逃げ込み、会津兵は更にここへ猛攻を加え長命寺も占拠しました。が、ここから西軍土佐兵による大反撃が始まり、大乱戦となりました。 ここで、

          会津戦史 慶応4年8月29日

          慶応4年8月27日~8月28日

          8月27日(新暦10月12日) 越後口の西軍はついに只見川の西岸片門村に到着します。会津兵は舟橋を撤去し、銃口を並べて待ち構えていました。とはいえ、只見川を渡れば会津はもうすぐそこというところまで来たのでした。 このジリ貧の状況を立て直すには、外からの援軍が必要でした。会津藩は米沢藩に対し、白河城での敗北以降、再三の援軍要請を行いました。 しかし、米沢藩は援軍を出すことはありませんでした。米沢藩では既に恭順派が実権を握っていたのです。米沢では、越後での敗退後、恭順派が台頭

          慶応4年8月27日~8月28日

          会津戦史 慶応4年8月26日

          8月26日(新暦10月11日) 前日占拠された小田山から激しい砲弾が鶴ヶ城に向かって撃ち込まれました。西軍の狙いは天守閣の破壊だったようです。砲弾は城内のいたるところに着弾し多くの人々が亡くなったそうです。 城を倒壊から救ったのは、江戸から来たとび職だそうです。そして火災が発生すると婦女子らは布などを湿らせ覆うなどかなり危険な消火作業を行ったそうです。タイミング悪く布を覆う瞬間に弾が炸裂して死亡した女性もいたそうです。 こうして城内の人々の活躍により鶴ヶ城は1ヶ月もの間、

          会津戦史 慶応4年8月26日

          会津戦史 慶応4年8月24日~8月25日

          8月24日(新暦10月9日) 照姫護衛のため坂下に向かった中野コウら20余名の娘子軍(後の俗称、当時は名前なし)は、そこで照姫はいない、つまり誤報であったことを知らされました。やむなく滞在していた萱野権兵衛隊に合流を求めたのですが、萱野に断られました。萱野は気骨ある士だったため、死を覚悟した戦いに婦女子を伴うことをよしとしなかったようです。途方にくれた娘子軍でしたが、そこにいた旧幕軍衝鋒隊に何とか合流させてもらい結局は萱野隊とともに一路若松城下へと向かっていきました。 一方

          会津戦史 慶応4年8月24日~8月25日

          会津戦史 慶応4年8月21日~8月23日

          8月21日 母成峠が落ちた日、 鶴ヶ城城下町にある会津藩士柴佐多蔵邸では五郎(10歳)が面川沢の叔父の家に栗拾いに出かけていきました。。。 8月22日 猪苗代を占領した西軍はすぐさま十六橋を目指しました。十六橋は猪苗代湖から流れる日橋川を渡るための橋で、ここで手間取ると会津入りが大幅に遅れることになるからです。 一方、会津では、21日の母成峠落ちるの報を受け、ただちに十六橋を壊し敵の進軍を止めるよう命令が下されました。そして、ついに白虎隊に出陣命令が下されたのです。 白

          会津戦史 慶応4年8月21日~8月23日