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「家族」と「血縁を超えた連帯」――『グエムルー漢江の怪物ー』(1)

映画を見る上で、「映画監督」に意識を向けるようになったのは、ここ最近の話である。これまでは、気になるのはいつも「出演俳優は誰か?」という点だけで、大袈裟にいえば、面白ければ誰が監督であろうと構わない、というスタンスだった。
そういう雑な鑑賞の仕方をしていたがために、感覚としては「〇〇監督の作品は一本も見たことない」と思っていても、実際はすでに二、三本見ているということが稀ではない。
今回取り上げる映画も、まさにその中の一本にあたる。

ポン・ジュノ監督の『グエムルー漢江の怪物ー』(1)は、『母なる証明』や『半地下の家族』から監督の存在に注目しはじめたミーハー人間からすると、とても意外な内容であるようにうつる。
わたしはこの映画を、はるか十年ほどまえに、友達の家で一緒に鑑賞したことを覚えていた。友達が、なんでもいいから襲ってくる映画がみたい、といって親と借りてきた映画三つのうちの一つであった。
半信半疑で再生し、いまからみればCGまるだしの怪物の姿に半笑いしつつも、次第に適度な大きさの怪物の恐ろしさに引きこまれていって、気づけばエンドロールになっていたことを記憶している。
ただ、感想はそれだけだった。恐ろしさ以外に注目した覚えはない。

今回改めて見直してみると、この映画は紛れもない家族の物語であり、なんらポン・ジュノ監督作品として「意外」なものではないことに気づかされた。物語を紡いでいく家族も、他のポン・ジュノ作品と同様、日々じりじりと貧しさに詰められながら生活をしていながらも、決して不幸に染まらない姿があった。
一方で、現在でも家族の前提とされがちな「血縁主義」には拘泥しない。劇中の最後で描かれる、主人公の男パク・カンドゥと孤児のセジュの食事の場面が、それを物語っている(2)。

次稿では、『グエムルー漢江の怪物ー』の内容に突っ込んで、雑感をまとめていきたいと思う。


【注】
(1)「2006年に公開された『グエムル』は観客1300万人を動員する大ヒットを記録しました。そして2014年に映画『ミョンリャン』にその座を奪われるまでの8年間、韓国の歴代映画ヒット1位をキープしたのです」(『マンガでわかるポン・ジュノ』P.109)

(2)韓国の映画評論家イ・ドンジンは、『ポン・ジュノ映画術』(河出書房新社)の中で、『グエムルー漢江の怪物ー』を次のように評価している。

「この映画の希望は、家族が崩壊した場所の外でかすかに咲いた。家族は崩壊したが、カンドゥが行き場のない最弱者のセジュを代わりに守り抜いたことで、共同体が誕生した。その共同体は、権力とは無関係の市民や貧困層の自発的な連帯だった。この作品の終わりに伝統的な家族はいない。その代わり、血縁を超えた弱者の間の固い連帯が見えるだけだ。『グエムル』は家族主義に寄りかかる映画ではなく、家族を超えたところに弱々しく輝く光を見せる映画だ。」(P.223)

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