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その人から見える自分

最近は、書くことより、他の方の記事を読みにいくことが多くなった。

例えば、読んだリアクションをくれた人は、これまでにどのような記事を書いたのだろうかと気になり、辿るようにしている。

最近、ホーム画面上に【月別】というとても便利な機能があることを知った私は、年月ごとに記事が分別されているので、まず初めの頃の記事を見るようにしている。

多くの方の初投稿では、noteを始めた理由や自己紹介を書いていて、最新の記事を1つ読むよりは、最初の記事を1つ読むほうがその人を知ることができる。

毎日投稿し、たくさん記事を書き、フォロワーが4桁ほどもある方も、最初の記事のリアクションは1桁程だった。

やはり、継続する中で時間と共に記事が読まれるのだなと実感させられつつ、焦点が当たらない最初の頃の記事の方が私には関心がある。

誰もが希望を胸にドキドキしながら書いた初めの頃の記事は、

きっとその方の思いが詰まった、初めて誰かに読まれたリアクションがあった記事は、特別なものではないかと思う。

どちらかといえば光の当たっていない、その記事が読みたい。

そんな中、いつものように読んでくれた方の記事を辿ると、視覚障がいのある方だった。

クリエイター名 かわい、、。。、、。。、いねこさん


すぐにその方の記事を読むと、自己紹介欄に”大学卒業後視覚障害者に。″と書いてあり、記事の内容も視覚障がい者になった視点から、様々な事が書かれていた。

そして、その書き方がおもしろく感じた。

おもしろいというと言葉が適切でないかもしれないけれど、文章表現や赤裸々な思いが綴られている記事は非常に興味深いと思えた。

その方の生活は、目の見える私からすると想像しても想像しきれない。

でも読んでしばらく考え続けた。その人にとっての見える生活、見える世界を。

どうやって、noteの記事を書いているんだろう?どうやって、私の記事を読んでくれたんだろう?と、まずスタート地点に立ち、コメントをした。

何より文章を読んでいておもしろかったと伝えた。

今後も知りたいから読みたいということも含めて。

すると、丁寧に返信をくれて、

「面白がってくれた人がいたこと、とてもうれしいです」と書いてあった。

おもしろいって表現が、言葉が足りない気がして、視覚障がいの方におもしろいなんて失礼だったんじゃないかと思い、再度言葉を足して何度かコメントをした。

文章で、その人の人となりにふれた気がして、目が見えないとか、障がいを抜きにして、おもしろいと伝えたかった。

私のコメントに、その都度返信をくれて、最後にこう書いてあった。

見えないと何をするにも死ぬほど時間がかかります

私はそう書かれた返信をみて、その言葉を噛みしめた。

視覚障がいの方の本を読んだり、テレビで拝見したり、考えさせられる機会はこれまで何度もあったけれど、その人たちのリアルな声までは聴いたことがないし、知らなかった。

だからこそ、その心の声のような素直な返信に、しばらく考え込んだ。

私の住む街は、車社会で、駅を利用することなんてほぼないし、車かバスか自転車の交通手段がメインだからか、視覚障がいの方に会うことが、ほとんどない。

接する機会もなければ、街中で偶然会い、お手伝いする機会もない。

今noteで募集している、もしも叶うならというお題を考えてみたとき、このnoteで知り合った人に会ってみたいと思った。

ここで書いてる人は架空ではなく、みんな実在するのだ。

文章を読むだけではおさまらず、noteを始めて間もないのに、そう思う自分にも驚いたけれど、現実では自分をさらけ出せずに偽って築いてきた人間関係がいかに希薄だったのかとも思った。

それ程、言葉や文章での心の交流と呼べるものに、私自身が寄りどころになっているんだなと気づかされた。

つい最近、久しぶりにコロナ流行以来、短大時代の友人三人でランチの美味しいお店に行き、家族を離れ一人で出かけ、色々な話をして楽しい週末を過ごした。

やっぱり、直接人に会って話すのって、楽しい。

久しぶりに気心知れた友人と会い、そのことを再確認した私は帰宅早々、家族に機嫌よく話が止まらなかった。

最近は、このnoteで書くことでコミュニケーションをしていたけれど、やはり人との対話が何より好きだなとも思った。

そんな時、もしも叶うとしたら、noteの人達に会ってみたいなと思った。

書くことが目的のnoteで、こんな感情を持ってしまう自分をめんどうだなとも思ったけれど。

視覚障がいを持つ、かわいいねこさんにも、もしも会えたのなら、お話したり私にできることがあるかもしれない。

そう思った時に気づいたことがあった。

人と会う時に、いつも自分の足の悪さを意識してしまうけれど、会っても足が悪い姿は見えないのか……

それに気づいた私は、涙を止めることができなかった。

私は、これまで何を気にしていたんだろう。

足の不自由さを、周りと比べて、人の目を気にして、いったい誰の目を気にしていたんだろうか。

勝手に、自分が自分のことを醜くしていたんじゃないのか。

きっと、見えない世界に生きている人は、私という人間の話す言葉や、書く文章で思いを知り、心の内にふれて感じ取ってくれているのではないんだろうか。

会えたとして、体の障がいなんて私が気にしたところで無意味だ。

そのことに気づかされた。

これまでも、自分の持つ障がいに対して、たいしたことないとか言われても強気でどこか心の中で反論してきた。

たいしたことないはずない、私にしか分からない気持ちがあると思ってきた。

この気持ちは揺らぐことなんて、ないと思っていた。

でも、自然とすんなりそのことを受け入れることができた。

他者と比較し続けて苦しんできた自分の思いが、それこそが何の価値もないのだということを思い知った。

色々な世界を知り、色々な方がこのnoteに書き記してくれるおかげで、そう思えることができた。

こんなにも、飾らない言葉や、ありのままの思いは人の心を動かすのだということもわかった。

どうにもならないことを苦しみとして、しがみついてないで、できることをやればいいんだ。

そのひとつは、記事を読み、時にはコメントをしたり、書いている人たちを応援することだと思った。

もう書きたいことは書いたし、書けることはないと思っていたけれど、読んでくれた人とつながれることで、またこうして書いていけることを教えられた。

そう思わせてくれる方が、たくさんいる。

障がいに関したことに限らず、日々の事への、その人にしかない想いを知ることが、私の心に確かに気づきを与えてくれている。

noteを続けた先に、これからどんな心の景色が見えるのだろう。

それを知る為には書いて、つながりをもち、読んで相手の思いを知ることが何よりも私には必要だと思った。

書き進めていけなくて立ち止まってしまったとしても、読むことを続けていけば、ずっとnoteでつながっていけるんだと思う。

星野富弘さんの詩画集より


よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせが近いような気がする

強いものが集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする

しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛に近いような気がする


この詩を知った時は、その意味がわからなかった。

悲しみより、よろこびがいいいし、

ふしあわせよりも、しあわせがいいに決まってると思っていた。

でも、今はnoteを書き始めたことで、たくさんの世界を知り、心にふれることで、このことがわかる気がする。









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