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二章・雨の日の憂鬱。

 
 網戸にしていた窓の向こうから、無機質な室内へと金木犀の香りが風と共に運ばれてくる。なびいたカーテンがパタパタと音をたてて、まるで心地のいい子守唄のようだった。
「山口さん、山口忠雄さーん」
 名前を呼ぶと、一列に並んだ待合室のベンチシートから、老人がゆっくりと立ち上がった。
「はいはい、はい」
 右膝に手を添え、まずはお尻を持ち上げると、よいしょっと掛け声をつけて、曲がった腰を伸ばし、一歩ずつ受付に近づいてくる。
「お待たせしちゃって申し訳ありませんね。足がね、やっぱり、どうしても痛くてね」
 そう言って「はぁ」と短いため息をつくと、カウンターのテーブルに片手をつき、肩から斜めに下げたポーチの中から、きんちゃく型のお財布を取り出している。
「いいえ、ゆっくりで大丈夫ですよ」
 領収書と処方箋の紙を二枚重ねて、山口さんの用意ができるのを待っている最中、自然と顔がほころんでいるのが、自分でもわかった。
 かわいいなぁと思う。
ロマンスグレーの髪に、いつだってピシッとアイロンのきいたシャツを着ていて、スラックスは日によって異なるが、チェックだったりストライプだったり、こじゃれている。
 奥様の趣味なのだろうか。なんというか、絵になるおじいちゃんだった。映画に出てきそうな。
「いつも、ありがとうねぇ」 
 にっこりと笑った山口さんが、わたしを見て、それから受付のスタッフを見渡して、大げさなほどに、左右に首を振った。
「ああ、ここの女性は、いつ見ても皆さん、美人さんばかりで……。笑顔で気持ちがいい。今日もありがとうございました」
 深く頭を下げ、ゆっくりとクリニックを出てゆく。その瞬間、その場にいた全員が作業している手を休め、心からの笑顔で山口さんを見送った。
 わたしを含めて、受付にいる三人はみな、四十代半ばから後半といった世代だった。
美人、と言われることはもちろん、「女性」扱いされることも、もしかしたらここ何年も、ないかもしれない。
 仕事柄、いろんなひとを見る。
待ち時間に苛立って横柄な態度をとるひと。中には、怒鳴り散らしてくるひともいる。
基本的には必要以上に「感じのいいひと」が少ない中で、時折、こういった物腰の柔らかい患者さんがいると、すさんだ心が和む。
「素敵よね、山口のおじいちゃん」
 隣でカルテの整理をしていた同僚の渡辺さんが、ささやくような小声で言った。
「ね、かわいいわよね」
「ほんとよ。うちの旦那なんて、歳とっても絶対あんなふうにはならないわ」
 家で、お腹を出して寝ている旦那様の姿でも思い出したのだろうか。怪訝な顔つきになり、渡辺さんは「ふぅつ」とため息をついた。
 わたしは苦笑いを浮かべて、つぎの患者さんの名前を呼ぶ。
 淡々と流れ作業をとこなしつつ、待合室の窓の向こうに、時折視線を馳せた。オレンジ色の小さな花が、風に揺れているのが見えた。
 金木犀の花は、別名リラという。
わたしの地元では、秋になり金木犀が咲く時期を「リラ冷えする季節になった」と、よくいっていた。
 思い返せばわたしの人生の転機はいつも、リラ冷えする季節だった。
 なぜだろう、そう思うと、なにやら急に、とてつもないことが、これから起こりそうな気がしてくる。
 ふっと、身体の全身を薄い膜で覆ってしまうような、そんな不安めいたものがよぎり、人知れず身震いをしてから、笑った。
 そんなこと、あるはずもないのに。

 朝の八時に間に合うように家を出て、クリニックでの仕事を終えたあと、夕方の十八時には買い物を終えて家に帰る。
 前まではわざわざ隣町のスーパーまで食材を買い出しに行ってから帰っていたが、最近では最寄り駅のコンビニか、弁当屋で総菜を買うかのどちらかになることが多かった。
 帰ってから洗濯機を回している間にちゃちゃっと食事を済ませて、風呂を沸かしている間に洗濯を干す。
風呂を出てからリビングにいって缶ビールを一本だけ飲みながら、ぼんやりとテレビを見る。そうして、帰ってこない夫に一本の電話を入れる。
 わたしの毎日は、いつも同じことの繰り返しだった。
「もしもし、真弓です。今日も帰らないのでしょうか」
 その日も、七コール目に留守番電話に切り替わった夫の携帯電話に、短くメッセージを入れた。
 毎回、飽きもせずに同じセリフだった。
時々なにか別のことでも……とは思うのだが、なにも報告することもなければ、伝えたい言葉も見つからなかった。
 果たしてこの行為が正解なのかはわからない。こうすることが、かえって良くない方向にわたしたちを運ぶのかもしれない。
 けれど、もう、十年も毎日のように続けていることだった。
いまさらやめられない。
 電話を切ったタイミングで、観たことのないドラマが流れはじめて、テレビのチャンネルを変えた。何も考えずに眺めるだけならばちょうどよさそうな音楽番組を見つけて、リモコンを定位置に戻す。
 やはり聴いたことのない曲ばかりが、テレビから流れている。なんの感情移入もできない若い恋の歌詞を耳に、急に自分が、歳よりじみて思えた。
すっかり飲み終えてしまった缶ビールを握りつぶして、天井を仰ぐ。真っ白な天井だった。シミも、色あせてもいない。まるで新築のよう、とまではいかないが、綺麗なほうだと思う。二十畳ほどあるリビングは、必要最低限の調度品しか置いていないせいもあり、広々としている。L字型のシステムキッチンは、ほぼ使っていない。
広めにとった窓、トイレや風呂場などの水回りも日々丁寧に掃除しているからぴかぴかだし、六畳の部屋が二階に三部屋ある。築十年になるこの家は、いま売りに出したら、いったいどのくらいの価値になるのだろう――。
 ふいにそんなことを考えて、首を振った。
 よっぽどのことがない限り、ここは、絶対に売らない。そう決めていた。
 思えば、この家を建てようという話になった頃から、夫は徐々に家に帰らなくなり、この家が完成した頃には、あるのは夫の数少ない荷物だけで、肝心な夫の姿はなかった。
「どうしてこうなったんだろ……」
 天井を仰いだまま、ついつい独り言をこぼした。
どうしたもこうしたも、理由なんてなかった。あってないようなものだった。
 毎晩、こうして夜眠りにつく前に思い出すのはいつも、はるか昔の思い出ばかりだった。
 それは、当然のことだ。
 毎日毎日同じことの繰り返しで、新しい思い出なんて、増えるはずもないのだから。

 夫は、同郷の幼馴染だった。
 隣の家で、家族も仲が良くて、物心がついた頃から、わたしは夫と結婚するのが当然だと思っていた。家族ももちろん、みんなそうだったと思う。
 しょっちゅう家族ぐるみで出かけていたし、共働きだった夫の両親は我が家に息子を預けることも多く、そうなるとまるで血のつながらない兄妹のようで、うちの両親も夫のことを自分たちの息子のようにしてかわいがっていた。
 子どもの頃から、夫は優秀なひとだった。勉強ができてスポーツができて、優しくて健全で男らしかった。
六歳年の離れたわたしが、じゅうぶんに憧れてしまうほど、雪深いちいさなその町では、「出来のいい好青年」としては有名だった。
一緒に歩いているだけで誇らしく、ましてやかいがいしく面倒をみてもらっていると、周りには「いいなぁかっこいいお兄ちゃんで」と羨望の目で見られた。
面倒をみてもらいたくて、わざと転んでけがをしたり、いじめられると些細なことでもすぐに泣きついた。
だから、ずっと一緒にいられると信じ込んでいたわたしは、高校を卒業すると同時にあっさりと田舎を捨てた夫のことが心のどこかであきらめきれず、思春期になり彼氏ができても、比較対象はいつだって夫だった。
定期的に、忘れられてしまわぬように手紙を書いたり電話をしたりメールをしたり、その都度夫は簡単だけれど返事をしてくれたし、少なからずわたしのことは、ずっと、忘れないでいてくれたのだと思う。
 思えばそれが、初恋だったのだ。
どんなに好きな男の子ができても、夫への感情に勝るものはなかったのだから。
 高校を卒業と同時に、夫が暮らす街へ出たのは、本当に偶然だった。否、数ある専門学校の中に夫が暮らす街に近い住所を見つけて、そこを選んだ。そう、選んだのだ。本当は会いたくて。
 上京し、数年ぶりに会った夫は、ますます魅力的になっていた。
 医者とか、パイロットとか、警察官とか、とにかくそういった、目立つ職種に就くだろうと勝手に思っていたわたしは、ちょっと拍子抜けしてしまったけれど、どんな仕事をしているのかよくわからなくても、とにかくビシッと着込んだスーツ姿が目にまぶしかった。
 そんなひとが近くにいたら、同級生の子どもじみた男子など、好きになれるはずがなかった。
 再会から毎日のように夫を口説き、口説いて口説いて、ときには「お嫁さんにしてくれないなら死んだほうがまし」だと泣き喚いたり、「おばちゃんに言いつけるから」と脅しめいたことを口にしたり、「振り向いてくれるまでずっと待ってる」と、健気な女を演じたりもした。
 はじめて抱かれた夜は、わたしの二十歳になる誕生日の夜だった。抱かれたというよりも、抱いてもらったというほうが正しいような気がする。
 誕生日を祝ってもらおうと勝手に夫の暮らすアパートの部屋まで押しかけると、寝ぼけている夫の上に馬乗りになって、服を脱いだ。
「抱いてくれなかったら、人生で一番最低な夜になる」
 そんなふうに言って、半ば無理やりにキスをした。驚いたような、困惑したような、それでも優しい目をして笑った夫の顔を、いまでも思い出す。
 本当に大好きだった。
二十五歳のとき「そろそろお嫁さんにもらって」と言った日も、そういえばリラ冷えする季節だった。
「いいよ」と、仕方がなさそうに苦笑いで頷いてくれたとき、そのまま死んじゃってもいいかもしれないと、思った。
 抱きしめて、抱きしめられて、わたしはこのひとと、死ぬまで一緒にいて、あたたかい家庭を築くのだと、信じていた。
 本当にそう、信じていた。
 四十四歳になったいま、こうしてひとり毎晩テレビを見ながら缶ビールを飲む生活を送る羽目になるとは、微塵も思っていなかった。

「え? じゃあなに、連休ってことよね、これ」
 診察をはじめる間際になって院長が珍しくスタッフを全員集めたかと思えば、新しい器具の導入と同時に空調設備の取り付け工事を行うことになったので、どうせなら一日院を休むと言った。
日曜祝日を入れて、三連休だ。
「もっと早くに言ってくれたらいいのに、先生も。ねぇ」
 渡辺さんが他のスタッフに同意を求めると、否定も肯定もしないような曖昧な相槌が返ってくる。本心では同じように思っていても、なかなか同調しがたいのだろう。古株の渡辺さんだから、さらりと言えたことだった。
「ねえ、中井さんもそう思わない? せっかくだから、どこか行こうかしらってなるじゃない」
「渡辺さんは、どこか行かれるの?」
「うーん、旦那に車出してもらって、娘とアウトレットモールでも行こうかな」
「いいわね」
 なんだかんだと言いながら、渡辺さんの話題にはよく旦那様が登場する。それだけ、仲がいいということなのだろう。
「中井さんは? どっか行かないの?」
 パソコンを立ち上げたあとで予約確認画面を眺めながら、仕事をしているふりをしていた。あまり、突っ込まれたくない。
「そうね、うちのひとは、休みがあってないようなものだから」
「ああ、ま、そうよね。社長さんだもんね、ご主人。忙しいわよね。でも、子どもがいたらまだアレだけど、休みの日もひとりじゃつまらなくなっちゃうわよね」
「そうね」
「いまはやりの不倫とか、しちゃいたくならないの? 中井さんまだ若いんだし」
「若くないわよ」
 乾いた笑みがこぼれてしまう。
四十八歳の渡辺さんと四十四歳のわたしじゃ、年齢差を感じるのは本人たちの間でだけだ。周りから見たら同じ中年のおばさんだった。子どもがいないことに触れるのも非道徳的な不倫の話を安易にするのも、悪気がないのはわかっている。もうさんざんいろんなひとに、言われてきた。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
 姿勢を正した渡辺さんにならい、声を出した。一番乗りの患者が、絶妙なタイミングで来院されたところだった。
 わたしよりいくらか若そうな中年の女性と、学生服をきた女の子だった。
「診察券と保険証をお願いします」
「あ、初診なのですが」
「では、こちらのほう、ご記入お願いします」
 女の子のほうは、スカートの下に長いジャージを履いて、片足を引きずるようにして歩いている。椅子に腰をかけ、母親が戻ってくるのを待っていた。部活かなにかでけがをして、学校に行く前にここへ来たのだろう。
 A4サイズのバインダーに挟んである問診票を記入しながら、母親のほうが女の子に一生懸命話しかけている。
 痛みからか思春期だからか、見た目は純朴そうな女の子だというのに、母親を見向きもせずに、不機嫌そうな表情を隠そうともしていなかった。
「どこ? 右でしょ? 膝? ああ、そうなのね、なんて書こうかしら」
 聞かないようにしていても、狭い室内だ。なにやら戸惑っている様子だったので、受付から声をかけた。
「わからないところは記入しなくても大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます」
 気づいてこちらに会釈をすると、すごすごと受付まで戻り、バインダーを差し出しながら、「お願いします」と言った。
 受け取り、それを確認する。
 ん? と思わず、小さく声に出してしまった。それに気づいた渡辺さんが、隣からわたしの手元を覗き込む。
 白紙が多い。とくに、問診票の三番から最後までが無記入だった。いままでにかかったことのある病気、現在かかっている病気、アレルギー、嗜好品などに関する簡単な項目だった。チェックを入れるだけなので、なかなかここを無記入にする患者は珍しい。
「すみません、生年月日なんですが」
 ㇲッとわたしからバインダーを取り上げると、渡辺さんは受付の前で立ち尽くしている母親に向けてそれを見せる。
「ああ、あの、保険証渡しちゃったから、年がわからなくて」
 確かに、確認すると生年月日の記入もされていなかった。娘なのに、わからないなんていうことがあるのか。
「ああ、そうですね……、えっと、平成十三年ですね」
 顔色ひとつ変えずに、渡辺さんがそう言ってペンを渡すと、母親のほうは黙って問診票の穴を埋めた。
「ありがとうございます。あちらでお待ちください」
 すぐにでも、渡辺さんに意見が聞きたかった。それなのに、知らん顔で渡辺さんはカルテを作っている。あえてこちらを、振り向かないようにしているようだった。

「中井さんが言いたいことはわかる」
 しばらくして診察室に親子が呼ばれると、待っていましたとばかりに、わたしは渡辺さんを見た。
 しかし、それよりも早く、渡辺さんのほうがわたしに身体を向けていた。
「アレは、訳ありね」
「そうなの?」
 幸い、まだほかに患者はいない。
「だって、あのひとの手、見た?」
「ううん」
「あれ、結構若いわよ。三十代の半ばくらいじゃないかしら」
「え、うそ? そう?」
 わたしより、少し若いくらいだろうと思っていた。
「それか、いって後半。で、娘は高校生でしょう。十代の時の子……にしても顔も似てないしね。後妻か、養子か」
「……養子」
 そういえば、考えたこともなかった。
 養子……。
子どもがいない夫婦からしたら、たとえ血のつながりがなくても、たしかにきっと、愛しいと思えるのだろう。でも、そのぶんきっと大変なことが山ほどあるのだろう。さきほどの親子を見ていると、そう感じる。
血は水よりも濃いという。幸せなことばかりじゃない。外から見ているだけじゃわからない苦労が腐るほどあるに違いない。それをひとりきりで、乗り越えられる自信がない。
「子どもを育てるって、大変よね」
「まぁ……そうね、大変ね」
 いつもならば放っておいてもべらべらとしゃべるくせに、今回に限っては少し、渡辺さんの歯切れが悪くなる。
「実感がこもってるわね」
 さすが、一児の母だ。
「中井さんにはいつも、娘の話してるじゃない? 仲いいように見せといて、実はそうでもないのよ」
「そうなの?」
「うん、ちょっと反抗期。あんまり出かけたがらないし、余計なことはしゃべってくれない感じよ。でも、そこまでひどくはないんだけどね。成長過程だとわかってても、やっぱりどこか寂しいわ」
「年ごろなのね。お母さんも、大変ね」
 微笑むと、渡辺さんはどこか少し、安堵したような顔で笑った。
「そうね、ありがと」
「でも、やっぱり自分の子だもん。かわいいんでしょう」
「そりゃ、かわいいわ」
 たったひとことで、十分に伝わる。
 大事に、大切に育ててきたのだろう。心から愛しているのだろう。いましがた産み落としたばかりのわが子を眺めるような優しい目を、ふっと渡辺さんはして見せた。
 子どものいないわたしにはわからない。もう少し若かった頃は、自分の子どもがほしくてほしくてたまらなかった。それこそ狂ったように。
 それでも最近になって、いなくて正解だと思うようになっていた。
 苦労して育てたっていずれ大人になれば離れていってしまう。親なんて、どんなに愛していたって友達や恋人よりも格下の扱いを受けることになる。
こちらの気持ちなんて知りもしないで、反抗的な態度でもとられたものなら、悲しくて悲しくてやっていられない。渡辺さんのように「かわいい」と純粋に言えなくなってしまうかもしれない。
それに父親がほとんど帰らない家なんて、かわいそうな思いをさせるだけだろう。ひとりで人間ひとりをいちから育て上げる自信がない。

 結婚して五年ほど経った頃から、親族からの「子どもはまだか」の催促が、激しくなった。避妊をしていたわけではないし、そういえばできないなぁとは思っていたレベルで、たいして気にはしていなかった。
 けれど、それから一年経っても二年経っても、妊娠することはなかった。
不妊に効き目があるというサプリがあれば買って試し、婦人科に通いはじめると基礎体温をつけるようになった。
健康的な生活を心がけ、いつ妊娠してもいいように、家を建てる計画も同時に進めた。
 排卵日を狙って夫を誘い、最初こそ「そんな業務的なものは……」と嫌がっていた夫も、最低限、協力してくれてはいた。
 子どもが欲しかった。夫との子どもが。夫によく似た、頭のよくて運動神経がよくて、かわいい顔をした男の子が生まれるだろうと思っていた。
 そうして三十二歳になった頃、しびれを切らし、本格的に不妊治療をはじめた。
夫はすでに三十八歳になっていて、あまり年齢がいってからの子じゃ、不安なことも増える。早く、子どもが欲しかった。すぐにでも欲しかった。
もっと簡単なことだと思っていたぶん、必要以上に不安に駆り立てられていた。
月日が経つにつれ、夫の仕事はどんどん忙しくなっていって不在がちになり、家にひとりでいることが多くなっていた。
 地元を出てから、とくにこちらで親しい友人がいるわけでもない。その時は、働きにも出ず専業主婦をしていた。
地元の旧友はみなすでに母親になっていて、残すところはわたしひとりだけだった。
単純にきっと、寂しかったのだ。
わたしだけが孤立してしまっているようで、世間から置き去りにされているようで、心細かったのだ。だから子どもが欲しかった。熱中できるなにかが。
 けれど、「排卵日だから」と伝えておいた日に限って、夫が家に帰らないことが増えていった。その時ぐらいは、何もかもなげうって帰ってきてくれたっていいのではないか。いくら仕事とはいえ、子どものことは、一生の問題だ。時間も限られているのに。
 不妊治療をはじめるようになってから、夫の「無責任さ」や「適当さ」や「危機感のなさ」が目立つようになり、苛立つことが増えていった。
 わたしだけが一生懸命で、夫は少しもわたしとの間の子どもを、望んでいないのではないかと思うようになった。
 あるとき、かえってきた夫を捕まえて、話し合いをした。
どうしても子どもが欲しいこと、もっと協力してほしいことを懇願すると、「あなたの望むことなら、叶えてあげたい」と言ってくれた。
うれしかった。
バカで単純なわたしは、とてもその言葉に、嘘はないように思えたのだ。
 だから、それまで以上に頑張った。
いろいろと調べて、いい病院があると言われたら電車を乗り継いで通ったし、面倒な検査も何度も受けた。
 それでも妊娠しなかった。もはや、なにかの呪いではないかと疑うくらいだった。人工授精と体外受精もできることはすべて試すべきだった。その前に、嫌がる夫を連れて病院で検査をしたとき、検査結果を突き付けて泣き叫んだこともあった。
「乏精子症だって、ねぇ、あなたにも問題があるのよ! どうしてもっと必死に協力してくれないの?」
「それでなくてもたんぱくなのに、わたしのこと好きじゃなくなったの? 抱きたくないの?」
「あなたには仕事があるかもしれないけど、わたしにはなにもないのよ!」
「わたしだけ、わたしだけがいつもひとりなのに、あなたしかいないのに」
 それで結局、夫が折れた。
 いや、折れて当然だといまでも思っている。ふたりの問題なのに、必死に向き合っていたのはいつだってわたしひとりだったのだから。
それでも、ダメだった。
いつの間にかわたしは三十四歳になり、夫は四十になっていた。
わたしたち夫婦の元に、子どもが生まれることはなかった。
 子どもの代わりといってはなんだけれど、予定通り、家を建てることにした。
 本当は、三人での生活をスタートさせるために考えていた間取りだった。しかし、手直しすることなく建てた。
 不妊治療をやめた途端に妊娠したというひとの話を聞いたことがあったし、やめたとはいえ、もしかしたらという可能性を完全に捨てたわけではなかった。
 だが、無駄だった。
ちょうどそのころから、夫は家に寄り付かなくなり、新しく家が建ったあとも、週に一度だけ、それが二週間に一度、三週間に一度と徐々に減っていって、最終的には帰らなくなった。
 もう、気づいていたのだ。本当は、ずっと前から。
夫がわたしの目を見なくなったことに。
話しかけるたび、どこか憂鬱そうな顔をしていたことに。
時折、嫌悪の目すら浮かべていたことに。
 夫婦間が破綻するとは、まさしくこういうことを言うのかと、身をもって知った。
 もともと無口で、表情の乏しいひとだった。それでもたまに、大口を開けて笑う。それが、うれしかった。
 夫がわたしの前で笑わなくなったのは、いったいいつからだろう。
もう、覚えてすらいない。
 それから十年ちょっと、これからあと何年、わたしは留守番電話に、メッセージを残し続けるのだろう。
 愛しているのか否か問われたら、わからない。わからないけれど、別れる気はない。
 郵便受けに何度か、離婚届けが届いていたことがある。なんの前ぶりもなく。
 見なかったことにして、すべてゴミ箱に捨てた。
 だって、どれほど長い年月を、あのひとのことだけを考えて生きてきたのか。
ずっとずっと、ほかの男に目を向けることもなく生きて、もう、ただのおばさんになってしまった。
 ここから、新しい出会いなどあるわけもなく、子どもがいるわけでもないから、生き甲斐だって見つからない。
 院にやってくる患者たちの人生を垣間見て、あんな旦那が欲しかったと羨んだり、あんなに大変なら子どもがいなくてよかったと言い聞かせたり。
未来ある他人の人生と過去しかない自分の人生を無理くり比較することでしか、生きていけない。
 もし、夫と離婚してしまえば、わたしからひとつ、「妻」というパーツが失われてしまう。
 つながりがひとつ、完璧に途絶えてしまう。これまでの人生の大半を、一瞬で失くしてしまう気がしてならないのだ。
 あんなにも一生懸命に築こうとしていたものが、叶わぬままに無駄になってしまう。
それならば、せめて「妻」であったまま終わりたい。
「もしもし、真弓です。今日も帰らないのでしょうか」
 連休の初日、その日もいつもと同じように、電話をかけた。
留守番電話にメッセージを残してから、リビングのソファに横たわり、ついですぐに、上体を起こした。
「あれ……」
 心なしか、金木犀の匂いがした気がした。ベランダのほうへと視線を投げると、洗濯物を干したときに開けたまま、僅かに閉め忘れていたようだった。
カーテンが挟まっている。
 重たい腰を上げて、窓辺へと向かった。
「ああ……」
 どこかで、金木犀が咲いている。
あけ放った窓の向こうには見当たらない。けれど確かに、甘い匂いがする。
 夜の冷たい空気を、肺の中にめいっぱい吸い込む。
ゆっくりと大きく息を吐く。
星ひとつ見当たらない、夜空を見上げる。
 ずいぶん遠くまで来てしまった。優しかったあの、生まれ育った町から。
 あの頃は幸せだったと、あの頃のことばかり考えている。
ここにいたってもう、幸せにはなれないとわかっている。
 それなのにここにしがみついて離れないのは――ー。
 突然、聞きなれない音がけたたましくなり始めた。
 それが自分の携帯電話の着信音だと気づくまで、ほんの少し時間がかかった。
 ハッとしてソファまで駆け戻り、画面を確認する。夫の名前が、表示されている。
 ドクンッと大きく、胸が鳴った。
脈拍が尋常じゃなく速まっているのがわかる。
 どんなふうに、電話に出たらいいのか。いったい何の要件なのだろうか。
 どうしようどうしよう。
 携帯電話を握りしめたまま、困惑し、躊躇った。
そのせいで、いつの間にかぴたっと電話がなりやんでしまった。
「あっ……」
 不在着信を確認し、そこに残った、夫の名前を凝視した。
かけなおそうか、かけなおして、どう切り出せばいいのだろう。電話した? そんな、普通の切り出し方でいいのだろうか。
 胸が詰まって、言葉が見当たらない。
 そうこう思い悩むうち、再び携帯電話が、着信を知らせて鳴り始めた。
 もういい、どうにでもなれ。
「はい」
 思い切って、今度はすぐに電話をとった。
「もしもし、中井さんの奥様でしょうか」
 見知らぬ低い男の声が、聞こえてきた。

 病院にかけつけたとき、夫の部下だというスーツ姿の男【狐顔】がわたしの元へとやってきて、知った様子で夜の病院内を案内した。
 決して患者用ではないであろう、奥まった場所にあるエレベーターに乗り込むと、ごとんごとんと音を立てて小さな箱がふたりを地下へと運んでいった。
 それからさらに歩き、それもまた奥まった場所にある階段を下りて、目の前にある、鉄の扉を押し開ける。
 少し進んで角を曲がると、三つ並んだ部屋があった。
「こちらです」
 神妙な声で、男が言う。
手前にある部屋のドアを開け、先にわたしを通そうとする男の態度に躊躇い、小さく会釈をしてから、そこへ足を踏み込んだ。
 静かだった。静かで、薄暗い。
思っていたよりも広い、空間だった。
 左右のベンチに座っていた見知らぬひとたちが、一斉に立ち上がり、わたしに向かって深く頭を下げる。
 真ん中にはベッドに寝かされた誰かがいて、枕元には花と、グラスに注がれた水、線香が供えられている。
 近づいていき、誰かの顔を、のぞき込んだ。知っているはずの顔だった。
 確かに、そう、まぎれもなくこれは、夫だ。わたしの、夫のはずだった。
 でも、こんな顔だっただろうか。
頭だって、こんなに白髪だらけじゃなかった。
頬もすっかりこけて、目も落ちくぼんでしまっている。
 よく似た誰かではないだろうか。
 ぼんやりと、どこか非現実的なこの状況を受け入れられないまま、夫の姿を眺めていたときだった。
「親父【おやじ】は最後まで穏やかに、眠るようお亡くなりになられました」
さきほどわたしを案内した男が、心なしか震える声で話しかけてくる。
 周囲から、すすり泣く声が聞こえてきた。一斉に、五感がさえわたっていくようだった。線香のにおい、誰かがささやいている声、肌を刺すような冷たさ、薄く靄がかかったように見えていた目の前の夫の顔が、はっきりと視界に飛び込んでくる。
「ああ……っ」
 そうか、死んだのか。
 このひとは、わたしを置いて死んだのか。
 そう自覚した途端、涙があふれた。
息苦しくなって、小刻みに息を吸い、吐き出すと妙な声が出た。
「あ……あ、う……ッ、ああっ」
 急に、身体から力が抜けていった。
膝を折ってその場にしゃがみ込み、頭を垂れた。
「奥さん……、肺がんの、末期で、最後はおそらく、とても苦しかったと思います。でも……男らしく、最後まで……」
 さきほどの男が、しゃがみ込んでしまったわたしの肩に手を添えてなにか言っている。
 うるさい、黙れ。死んだ理由なんて、どうだっていい。
わたしはなにも知らなかった。
聞かされていなかった。
こんなことがあっていいのだろうか。夫婦なのに。
夫婦だったはずなのに。
「……大丈夫ですか?」
 響いた声に顔を向けると、部屋の入り口が、いつの間にか開いていた。
黒いスーツ姿の若い男が、なにやら冊子のようなものを胸の前で抱えて、こちらを見ている。
「あ、いま、ちょっと……」
 狐顔の男がわたしの肩に手を添えたまま、申し訳なさそうに言った。
どうやらわたしに用があるようだった。よくよく目を凝らせば、葬儀場のパンフレットを抱えているようだった。
 そうか、喪主をしなければならない。
わたしはこのひとの、妻なのだから。
 死に目にも会えず、病気だということも知らされず、こうして突然ひとりにされてしまったのに。
 違う……、もう何年もずっと、ひとりきりだった。
このひとのせいで。
 このひとがいたから、わたしはずっとひとりきりだった。
ずっと、寂しくて寂しくてたまらなかった。
 涙が止まらなかった。
 立ち上がろうと思うのに、できなかった。
 周りのひとがみな、同情的な目でわたしを傍観していることに気が付いていた。
 突然夫を亡くしたかわいそうな妻だと思っているのだろう。
 同情される筋合いはない。
 夫を亡くしたことよりもずっと、わたしはわたしがかわいそうでかわいそうで、泣いているのだから。
 夫を失ってはじめて、気づいたのだから。
「……だから、子どもが欲しかったのよ……」
 呟いた声は、きっと誰にも聞こえない。
 ああ、わたしは誰よりもわたしが一番かわいくて、夫のことなど微塵も、愛していない人生だった。


 


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