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たどり着けない

新井啓子 詩集『さざえ尻まで』(思潮社)

 心象風景と抒情詩は厳密には違うが、外材する景観を素材として内在するものを投影させる詩法的に言えば、この二つはそう隔たるものではない。主体側の主観による網掛けがなされた、半具象的な素描がこれに相当するだろう。内在するものは記憶であり、願望や憂愁、悲哀、寂寥、郷愁等々、清新で繊細な感覚である。外材する景観にしても見たありのままであるはずがないから、夢遊的な描写にデフォルメされることになる。タイトルの「さざえ尻」の語感、松江の地名であるとか、行き止まりの道の名で特異的である。〈雨はトマトに傷をつくった/やわらかい果肉が切れて/そこが微笑んだ口のかたちになっている/きつい言葉は似合わないかたち〉(『蕃茄』)、〈歌をを歌っていることもあり 前のめりに物語っていることもある 洪水のあとも 開墾の末にも ひとつだけ残り すうと風が川面をわたっても 涼しいともいわない 恥ずかしがって木隠れる 小さな川だ〉(『分水路』)。目にする光景が主体の感覚である詩、読み手は光景の奥行きまでをパースペクティブに見渡すことになる。詩篇『骨の話』も佳品だったが、巻末に置かれた詩篇『クラウドボウ』の〈折れ曲がったきつい坂は/ちちははの来た径/折れ曲がった蔓草の茂る坂は/わたしの帰る径〉により濃厚な味わいがにじみ出ているように感じた。また、帯文にもある「たどり着けそうでたどり着けない」詩作の未到達性をも、同時に暗示しているように思った。

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