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喜劇的である不条理

前田利夫 詩集『生の練習』(モノクローム・プロジェクト)

 レトリックを度外視してでも、自身の内なる声と真摯に正対する、清新な姿勢で一貫した詩集であった。そうすることで副次的には、外界の自然現象でさえ原初的な光景として詩的に立ち現われてくる。〈風が唸る音がした/いつまでも 身体を撫ぜる 大気が剃刀のように/斬りつけているのに/空だけが なぜこんなに青いのだろう〉(『透明な統計表』)。次のような特異で異常な行為だって許容できる。〈風が吹いてきて 線路をなでていた/ひとは さびしいと感じるものがあれば/さびしさに耐えられる/線路の横に添い寝をした〉(『線路』)。書き手にはこんな光景が見えているからだ。〈たぶん/父も母も 私もあそこにいるのだろう/そして家族と親しく 夕餉を囲んでいるのだろう〉(『かなしみ』)。それは過去の情景であり、決して来ることのない架空の幸福な光景である。言葉と幻想とが織成す言語世界、〈涙があふれそうな/荘厳な空の夕暮れをみていた/もうすぐ 一日が死ぬのだ/さっそく/一日の葬儀をしなければならない/庭にある花を束ねて/追悼をしたい//(中略)//私は こうして多くを見送り/多くを忘れさり/花束を/ゴミ箱に/捨ててきたのだ〉(『夕暮れのとき』)。母親と死別した後も子は生きる。「葬儀」とは「忘れ」たり「捨て」たりする儀式である。この詩人としての冷厳な眼差しは詩篇『喜劇』最終連〈わが子の死を やり場の無いかなしみを/訴えているのだ〉の、パラドックスにみることができる。これは都会の真っ只中の孤独な「死」が喜劇的である不条理を展開して、哲学的な鋭利さを兼ね備えた詩篇であった。

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