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藤井風「花」は、輪廻のうたである。

【輪廻】

藤井風「花」は、輪廻のうたである。

明るく弾んだミディアムテンポには、ライフタイム(一生)を讃えるビートがある。だから、一聴するとポジティヴィティだけを受けとるかもしれない。

だが、少し耳をすませば、動悸を思わせる規則正しさがライフタイム(寿命)のメタファーであることに気づくだろう。そう、あなたもわたしも限定された時間を生きている。

わたしたちのライフタイム(生涯)は、そのようなものである。長くも短くもない。曲のなかで歌われているように、ただ儚く尊い。

まず、主語を探してみよう。

“わたしは何になろうかな”

このフレーズが登場するのは完全に後半に入ってからである。では、この曲は倒置法なのか。違う。これはあくまでも一人称に限った場合だ。

前半には、こんなくだりがある。

“僕らを信じてみた
僕らを感じてた”

僕ら。一見、主語に思えるが、これは主語と向かいあう対象だ。この「僕ら」は「あなた」に置き換えることもできるし、さらに「世界」や「宇宙」に置き換えることもできる。つまり、自分を取り囲む広大な何か(だから複数形なのだ)と考えたほうが自然だ。

このくだりは後半でもリフレインされる。

「社会」や「地球」を「あなた」と形容するのではなく、「僕ら」と呼ぶ姿勢に作者の非凡な覚悟と諦念がみなぎっている。

“誰を生きようかな”

本作で最も重要な言霊は序盤で登場する。

誰を生きようかな。この思念の主に主語は与えられていない。文章でもそうだが、うたの場合は、特に主語を明示する必要はない。主語を仕舞っておいたほうが、うたはみんなのものになる。みんなが自分を仮託しやすくなる。みんなのうたになる。

秘すれば花。

“みんな儚い
みんな尊い”

ここでの「みんな」とは、誰を生きようかなの「誰」のことである。

つまり、主人公は、生まれ変わり先を探しているのだ。すなわち、ここに記されていない主語は、霊魂であろう。浮遊する霊が、リインカーネーションしようとしている。転生の旅。

“どんな色がいいかな”

霊は無色透明。選択次第で、どんな色にもなれる。たのしげなはずの言葉をうたう藤井風の声はどことなくさみしげで、けれどもサウンドは明るさを失わない。対位法。音像がきらきらしているからこそ、主人公のつぶやきは切なく響く。この的確さ。冷静な慈愛。相手をしっかり見据え、しっかり抱きしめる。落ち着いた抱擁が、この旅の同伴者となる。


【現世】

『花(EP)』は四曲構成。すべて同一曲だが、そこには展開があり、単なるヴァージョン違いの集積ではない。四楽章形式と捉えるべき趣。この曲順に意味がある。

「花」に続き「花(Instrumental)」が流れる。言うまでもなくボーカルレス。サウンドの全体像を把握し、弛まぬビートが孕むメロウな反響を噛み締め、あらためて胸に迫るメロディ、こころに沁みる音の粒たちに身を委ねていると、ある感情が降りてくる。

かなしみ。

「花」にはなかった不意打ちの情緒。声の不在。藤井風の不在。あの言葉たちが今ここにないことが、こんなにかなしいなんて。わたしたちは思い知る。インストゥルメンタルというものが、こんなにかなしいものだったなんて。知らなかった。

これは伴奏音楽ではない。あの声が、あの言葉が、もうここにはいないという無情の不在が、ただ静かに、けれども容赦なく、劇的に忍び寄る。

これは、もはや霊魂さえも姿を消した世界。主なき現世。だから、わたしたちは求めずにはいられない。藤井風の声を。藤井風の言葉を。藤井風のうたを。

反芻する。もうここにはない何かを反芻する。ひとりきりで。孤独な現世。あまりに孤独な現世。


【鎮魂】

三曲目「花(Ballad)」は、霊魂の帰還である。

シンプルでメロディアスなピアノ弾き語りは、わたしたちが待望していた藤井風のよみがえりを際立たせる。

「花」のときより、さらに優しく、さらに豊かに、声を、言葉を、うたを受けとめることができる。なぜなら、わたしたちは「花(Instrumental)」で、願っていたから。祈っていたから。待っていたから。

時にゴスペル(霊歌)の絶唱が通り過ぎ、時にレクイエム(鎮魂歌)の愛撫が舞い降りる。

おかえりなさい。

“枯れていく
今この瞬間も
咲いている”

これ以上の鎮魂の言葉があるだろうか。

“さりげなく
思いを込めてみる
やむを得ず
祈りを込めてゆく”

わたしたちはなす術もなく、もう、ただそうするしかない。


【喝采】

「花(demo)」は、この転生の旅の最終章。

デモとはおもえない完成度だが、スケッチブックにパステルで描いたような藤井風のうたはこれまでで最も生声感がある。生身。むき身。ピアノはラフでその分、余白が柔らかい波を描く。

藤井風が積み重ねてきた一枚一枚の花びらが、真っ白いキャンバスに散りばめられている様を目の当たりにする。絶句するような光景。原初の美しさ。

“咲かせにいくよ
内なる花を
探しにいくよ
内なる花を”

内なる花とは、なんだろうか。

「花(demo)」は、ついにその秘密を明かしているようにおもえる。

内なる花とは、自分自身ではないか。

彷徨える霊は、輪廻転生する場をついに見つけたのだ。

自分自身。

自分自身に生まれ変われ。

藤井風「花」は、そううたっているように聴こえる。

“my flower's here”

「花」や「花(Ballad)」ではエンディングを彩る呪文だったこの英語は、本人の声の多重録音によって、聖なるざわめきに転生している。

わたしの花はここにある。

無数のひとびと(しかし、それはすべて藤井風である)がつぶやいている。つぶやきの集合が、拍手に聴こえる。喝采も聴こえる。

わたしの花はここにある。

“誰もが一人
すべては一つ”

霊魂は、自分自身に輪廻した。

しわしわに萎れた花束を小脇に抱えた者たち
全てが溶けていくフィナーレである。


「花」
作詞・作曲
藤井風

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