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いつか見た風景 100

「束の間の幸福論」


 私は深夜の冷蔵庫の統治者である。深夜のリビング帝国の王位もまだ失ってはいない。帝国は無意識の回廊を通じて隣国のベッドルーム共和国へと繋がっている。かつてそこには愛しき妻がいて「いい加減もう寝なさいよ」と私を心の平安へと導いた。今そこは宇宙の神秘へと繋がる魂の発射基地になっている。そうだ忘れてはなるまい。日に幾度も祈りを捧げるトイレット礼拝堂の事を。私自身と私が生息するこの星の全ての生き物たちの平和と安全を、私はいつも魂を絞り出すように願っているのだから。

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



「ちゃんとしなさいと声がする」「ちゃんと出来るか不安だね」


 老化に伴い随分と萎縮した私の髑髏(シャレコウベ)を仮に地球の大きさと仮定する。すると4メートルばかり離れた先のゴルフボールが丁度お月様との距離感と大きさに該当するらしいんだ。不思議な事にリビングから見える廊下の先のトイレの前に私のお月様が落ちている。きっとここから4メートル程の距離があるに違いない。足の裏をマッサージするために私が愛用しているあのゴルフボールの奴が、その絶妙な引力の力を発揮して私の脳内を支配していたとはついぞ知らなかった。

 太陽はここから1,5キロ先の直径14メートルの気球ほどの大きさだと言う。
リビングの窓を開けて、それらしい物体を探してみたが見当たらない。そうか、今は深夜だからね。どこぞの倉庫に格納されて深い眠りについているに違いないな。それとも日頃のストレスを発散させるために銀河のどこかの居酒屋でクダを巻いているのかな。そうそう、それから火星の奴は2,3キロ先のミカンの大きさだって言うから、ちょっと肉眼では確認は無理なんじゃないかな。向こうからヒッチハイクでもして私に会いに来てくれないとね。だからさ、結局はこうしてトイレの前のゴルフボールとお喋りするしかないんだよ。太古の昔からの繰り返しだな。願いごとしたり、不安をぶつけたり、ヒマ潰しだったりさ。

「月は年に3センチは地球から離れて行ってるって聞いたけど?」
「お前さんと距離を置きたい理由を聞きたいのかい?」
「やっぱり何かあるんじゃないかなって思ってさ」
「自己中心的で野蛮なのは自覚してるだろう?」
「私が勝手でわがままで、時に暴力的だとでも言うのかい」
「だってそうだろう、汚い足で踏みつけて、いつも床にゴロゴロ押し付けてさ」
「いやそれは、それは一様風呂上がりだしさ、健康のためだから…」

 月の引力が無くなると地球の地軸が極端に傾いてとんでもない事になるそうなんだよ。強風やら砂嵐に見舞われてさ、それに地球の自転も過激に加速しちゃうから、1日の長さがあっという間に6時間とかに短縮されちゃうって。ただでさえ24時間じゃ足りないって思ってたところだからさ、こいつは真剣にゴルフボールとは和解の方向で何とかしないとな。


「その距離を保つのがお互いのためなの?」


 私のシャレコウベを独り占めしている脳宇宙には1000億個の神経細胞がまるで銀河宇宙のように広がっているらしいんだ。文句を言う訳じゃないけど、頭の良さそうな学者の先生たちが時々私らを煙に巻くようなギミックを使う事があるだろう。あなたの脳の不思議は宇宙の神秘と同じですよってさ。実際に銀河には2000〜4000億個の恒星があって、それぞれの恒星には周囲を公転する惑星が幾つもあって、それからその惑星の周りに衛星が回っているって。つまりいっぱいの星を私の頭の中でぐるぐると回らせて混乱の渦を私の銀河のあちこちに巻き起こそうって魂胆なんだよ。

「先生、それで巨大な銀河の中心には銀河の命運を握る親玉がいるって聞いたんですが…」と私はかかりつけの大学病院の先生に恐る恐る尋ねてみた。少し前から私の脳内銀河にも私の意思に反したネットワークを構築しようとしている怪しい者の存在を感じるようになったからね。「昔はどデカい親玉星の存在が疑われたけど、最近ではその親玉の正体がどうやらブラックホールだってのが常識なんですよ…」って先生が答えた。そうですね、ブラックホールは何でも一瞬で呑み込んでしまうから、きっとタカオさん、あなたの記憶もねぇ…と付け加えるのを躊躇うように先生が含み笑いをしている。そうか、やっぱりそうなんだ。私は突然理解した。我がヒマナンデス銀河の親玉のブラックホールに私の大事な記憶たちは呑み込まれていたのだ。

 そもそも海馬星の萎縮によりヒマナンデス銀河の惑星間のバランスが崩れたのかも知れないな。松果体星はきっとこの銀河の恒星に違いないと思っていたんだけど、もしかしたら石化が進んで突然穴が開きブラックホールに変身したかも知れないぞ。極限まで狭い領域の穴に押し込められた私の記憶たちによって、とてつもない重力が発生して光さえも抜け出す事ができない状態にでもなっているのだろうか。

 ブラックホールが何でも吸い込む厄介な存在だとしても、吸い込まれたれた物質や私の記憶情報はその後一体何処に行くのかという疑問が沸く。幸いな事にかつては「情報は保存されない」と主張していた物理学者のホーキング博士も他の学者の「ブラックホールに吸い込まれた物質の情報は、なんらかのカタチで保存される」とする説を、博士が亡くなるちょっと前に間一髪で支持してくれたんだよと先生が教えてくれた。だから今ではその情報の在りかとされるホワイトホールの存在に注目が集まっているそうなんだって。ブラックホールに対するホワイトホール。何だか安易なネーミングに聞こえなくもないけど、ともかく誰でもいいから早くそのホワイトホールとやらの場所の特定を急いで欲しいものだね。


「お互いを知るにはゆっくりと時間をかけないとね!」


 ホワイトホールの内部はどうなっているんだろうか。私の大事な記憶情報たちは一体全体どんなカタチで保存されているのだろう。やる気のない卸業者の倉庫のような状態はいただけないからさ。どこに何があるか探し出すのに半日はかかるからね。まさかゴミ屋敷みたいな状態じゃないだろうな。理想を言えば、天井の高い、ゆったりとした造りの、レトロだけど清潔な大聖堂風の図書館のようであって欲しいんだよ。優しい司書のお姉さんがさ、私の手を引いて目的の書棚に案内してくれるようなホワイトホールだよ。途中で疲れたらさカフェに寄ったりしてさ、挽きたての美味いコーヒーを2人で飲みながらさ、ゆっくりと記憶を辿りたいじゃないか。

「それで、最後に見たのはトイレの前なんですね?」
「そうなんだ、月の引力の話をしたのが最後だったかな…」
「見つかりますよ、お互い惹かれ合ってるんだから」
「そうだといいんだけど、何だか距離を置きたがってたような気がしてさ」
「色々ありますから、長いこと一緒に生活してると…ねえ」

 ホワイトホールカフェの、私の向かいに座っている図書館司書のお姉さんの顔が、一瞬懐かしい私の妻の顔に見えていた。彼女は今頃どこで何をしているのだろうか。きっとそんな宇宙の極秘情報も、このホワイトホール図書館のどこかに保管されているに違いない。



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