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【小説】烏有へお還り 第7話

   第7話

「次の信号を、左折して下さい」
 カーナビの音声が静かな車の中に響いた。車は緩やかな坂を登っている。窓の外に目をやると、紅葉を終えた葉がはらはらと舞っているのが見えた。

「なんとか間に合いそうだな。道が空いててよかったよ」
 運転席の父の言葉に、母は時計を睨み、

「だから、もっと早く出ようって言ったのに」
 と不機嫌を露わにする。

「いいじゃないか、間に合ったんだから」
 のんびりと父が言った。なにか文句を言いたそうに息を吸った母は、しかしそれを飲み込んだ。代わりに、後部座席の柚果と弟を振り返り、

「楽しみね。柚果も大翔も絵が上手いから、こういうのも得意なんじゃない?」
 笑顔で言った。

 柚果はシートから背を起こし、曖昧に頷いた。けれども弟は聞こえなかったかのように窓の外から目を離さない。

 秀玄彫りの体験に行こうと、突然母が言い出したのは二日前だった。
「調べたんだけど、生涯学習会館で体験教室をやってるんですって」
 母がスマホをテーブルの上に置き、画面を柚果に向ける。

「ね、パパもお休み取るから、四人で行こう」
「四人?」
 柚果はちらりと天井を見上げた。食事とトイレと風呂以外、弟は部屋から出てこようとしない。

「もちろん、大翔もよ」
 母が語気を強める。

「こういうのね、すごくいいんですって。集中して手を動かしていると、頭の中から余計なことを消せるでしょう。無心になって作業するって、心身のリラックスになるし、気持ちの切り替えにもなるみたい」

 そういうことか。柚果は合点がいった。不登校の大翔のためにと、誰かから薦められたのだろう。またはネットで情報を見つけたのかもしれない。

「別に、あたしは」
 首をすくめた。特に興味はない。

「いいじゃないの、みんなで行こうよ」
 母が熱心に言った。「ね、四人で出かけるなんて久しぶりでしょ」

 住宅メーカーで営業をしている父は、土日に仕事が入ることが多い。ここ数年は、週末に家族で出かけたことなどほんの数える程度だ。

 返事ができないでいる柚果に、
「帰りはみんなで焼肉食べに行こう。ね、いいでしょ」

 母に畳みかけられ、「うん……」と頷いていた。食べ物につられた部分もあるが、四人で外出することがほんの少し楽しみでもあった──。

 父は運転席で欠伸をしている。せっかちな母とは対照的に、父はのんびり屋だ。
 なんでもきびきびと先取りしてしまう母とは違い、ゆったりとした空気感が心地よく、小さい頃はいつも父に甘えていた。けれども中学生になる少し前から、それを恥ずかしく思うようになってきた。

 父はもともと自発的に話しかけてくるタイプではなく、どちらかというと聞き役だ。柚果の方から声をかけるチャンスを逸しているうちに、会話をすることがどんどん難しくなっている。

「体験の方、こちら受付です」

 多目的室の前で、受付の女性が示す紙に母が書き込んでいる後ろで、柚果は手持ち無沙汰に辺りを見回した。生涯学習会館には、小学生の時の校外学習で来たことがある。屋上にドームがあり、そこでプラネタリウムの上映があった。

 廊下に貼られたチラシによると、秀玄彫りの体験は月に二度行われているようだった。多目的室の中に入ると、既にテーブルが列状に並んでおり、まっさらな板とお手本となる図版、それから見慣れない形の彫刻刀のようなものが何種類か置かれている。

 柚果たちが最後のようで、既にほとんどの席が埋まっていた。二つだけ並んで空いている席が一か所だけあるが、それ以外は一席ずつバラバラに離れている。

「ほら、だからもっと早く家を出ようって言ったのに」

 母が目を吊り上げる横を黙ってすり抜け、柚果は奥の離れた席に向かった。こんなところで声を荒らげて欲しくないし、親と並んで座るのも恥ずかしい。父も一人で離れた席に座り、母は弟と並んで座った。

「初めまして。本日は秀玄彫り体験に来て下さり、ありがとうございます」

 挨拶しているのは、白髪交じりの髪を短く刈り込んだ年配の男性だった。年齢は柚果の祖父と同じくらいだろうか。紺色の作務衣に身を包み、顔には深いしわが刻まれているが、目元は優しい。

「まず、どの図版を使うか選んでください。一番簡単なのはこれですね」
 と言って、一枚の葉っぱが描かれたシンプルな図版を掲げる。

「逆に細かいものはちょっと難しいかもしれませんが、手先が器用な人なら挑戦してみて下さい」

 柚果は手元にあるいくつかの図版を眺めた。やったことがないので自信はないが、あまりシンプルすぎるのもつまらない。いくつかの花が描かれたものを選んだ。

 男性の説明に従って、板の上にカーボン紙を敷き、その上に図版を乗せて鉛筆でなぞっていく。写し取った線に沿って、『ひっかき刀』という先の曲がった道具を使って彫っていった。

 思ったよりも難しい。特に曲線の部分は、思っている方向に進まない。

「持ち方ね、こうして、左手はこんな風に」
 二、三人の作業服の男性が教えて回っている。さっき前で説明していた紺色の作務衣を着た年配の男性が、順番に声をかけながら、柚果のところへ近づいてきた。

「どんな様子ですか?」
 祖父ほどの年齢の相手から、敬語を使われたことに驚いた。穏やかな微笑みに、緊張が解けていく。

「曲線が難しくて……」
 柚果がそう言ったのとほぼ同時に、

「蒔田さん、お電話です」
 受付にいた女性が、作務衣の男性に向かって声をかけた。

「はーい」
 男性はそちらに返事をしてから、反対側に顔を向けた。多目的室の奥にドアがあり、その前に一人の少年が立っていた。

「おい、和志。こっち来て、こちらのお嬢さんを見てあげてくれ」
 男性の言葉に、少年が寄りかかっていた壁から身を起こした。柚果のところへ歩いてくる。

 ひょろりとした細身で、背は柚果よりも頭一つ大きい。けれども顔はまだ幼い。高校生くらいだろうか。
 和志と呼ばれた少年は、作務衣の男性と入れ替わりになると、黙ったまま柚果の手元をじっと見ている。

 促されるように、柚果は道具を持ち直した。さっきの続きを彫り始める。

「そうじゃなくて、こう」
 不意に少年が呟き、柚果の持つ道具に触れた。手を放した柚果からそっと受け取り、板を自分に向ける。

 少年が板を彫っていく。柚果は声もなく見入った。道具に添えられた少年の指先はまったく力が入っていないかのようで、それなのに板はするすると削り取られていく。浮かび上がってきた花は、まるで最初から板の中に埋め込まれていたかのようだ。

「こら。教えるんじゃなくて、お前がやってどうする」
 その声に、柚果ははっと顔を上げた。紺色の作務衣の男性が、少年の後ろ頭を手のひらでぱしんと軽く叩いた。少年は男性を振り返ると、そのまま机を離れていった。

「すみませんね、不愛想で」
 男性が言う。二人の親密さが窺えた。

 柚果は道具を握り直した。少年の道具の動かし方を思い出してみると、さっきよりもコツがわかった気がした。

「はい、お疲れさまでした。みなさん、いかがでしょうか」

 夢中でやっているうちに、ずいぶんと時間が経っていた。柚果は奥のドアに目をやったが、少年はもうそこには立っていなかった。

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