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【小説】烏有へお還り 第4話

   第4話

「え、ヤバっ! マジでヤバ!」
 甲高い声が教室に響いた。すぐ近くに座っていた柚果ゆずかの鼓膜が震え、肩がびくりと上がる。手にしていたノートが、バサっと大袈裟な音を立てた。

 柚果の席から狭い通路を挟んだ斜め前の席で、めいっぱい足を投げ出して座っているのは亜美だ。会話の相手はすぐ目の前におり、そこまで大きな声を出す必要はない。

 わざとだと、柚果にはわかっていた。昼休みにたった一人で過ごしている柚果に対して、マウントを取っている。

 自分は一軍で、スクールカーストの上位。うらやましいでしょ。あんたがあたしたちを気分よくさせてくれるなら、仲良くしてやってもいいけど。

 そんな思惑は、口にせずとも伝わる。柚果の被害妄想でも妬みでもないはずだ。クラスの中には言語化できない序列がある。大抵の生徒はそのことに気づいている。

「マジ、あいつすげーバカじゃん!」
 亜美の調子に合わせ、彼女の席を囲むように立っている二人が笑う。ヒステリックな高い声は、心から面白がっているというよりも、亜美に阿って調子を合わせているだけに聞こえた。

 亜美に寄り添うように傍らに立っていた一人の女子が、ワンテンポ遅れで身をよじって笑い出した。肉厚な尻が柚果の肩に当たり、はずみで手がペンケースにぶつかる。床に落ちた音で、何人かの生徒が会話を止めて柚果に目を向けた。

 慌てて床にしゃがみこみ、散らばった筆記用具を集める。柚果はそのままじっと身を固くした。誰かの目線を集めていることを意識すると、心臓がどきどきしてくる。嫌な汗が噴き出した。

 ぶつかってきた女子は気づいていないのか、それとも無視しているのか、謝るどころか柚果に顔を向けようともしない。

 そっと横目で見ると、彼女は立っているのに疲れたのか、柚果の机に半分体重を預けてきた。本を読もうにも、予習しようにも、彼女が身動きするたびに机が揺れる。

 柚果は諦めて立ち上がり、教室を出た。尿意はないがトイレに向かう。他に行く場所もない。

 廊下を進んでいくと、突き当りにあるトイレの一つ手前の教室に目が止まった。入り口からそっと中を覗く。栞と優愛の姿が見えた。楽しそうに笑い合っている二人に手を振りたい衝動に駆られたが、暗い顔を見られたくなかった。足早に通り過ぎる。

 しおり優愛ゆあは一年生の時のクラスメイトだ。知り合ってすぐに仲良くなり、いつも一緒に行動した。入学式で初めての制服に袖を通し、中学では果たして友達ができるのか不安だった柚果にとって、二人の存在は奇跡だった。

 しかし中二のクラス分けで、柚果だけ離れてしまった。教室も廊下の端と端で、一番遠い。

 同じクラスには親しい相手がいない。教室内は一年生の時のようなアットホームな雰囲気ではなく、亜美のような派手な存在のせいか、みんなが警戒してよそよそしい空気を醸し出しているように感じる。

 トイレで用を済ませると、いよいよやることがなくなった。時間をつぶすため、少しだけ遠回りをして教室へ戻ることにした。階段を登り、家庭科室や理科室の前の廊下を歩いていく。

 クラスには柚果と同じように静かなタイプの子もいる。機会があれば、その子たちと会話をすることもあった。

 けれども、教室内の雰囲気のせいか、誰かに心を開くことが難しい。少しでも周囲と違う部分を見せれば、みんなの前で大声で揶揄されるのではないかと怯えてしまう。

 教室へ戻ると、入り口に三人の男子が立っていた。伊佐治と、その取り巻きの二人だ。柚果の身体が強張る。

 反対側の入り口にまわることを考えたが、今さら進路を変えるには遅すぎた。男子の一人が柚果に目を向ける。ここで背を向ければ、あからさまに柚果が避けたとわかり、なにを言われるかわからない。

 視線を感じて、汗が噴き出す。平静を装って彼らの前を通過した瞬間、「チクリ女」という小さな囁きが耳に届いた気がした。カッと顔が熱くなる。

 一学期のことだった。伊佐治とその取り巻きが、調子に乗ってとんでもないことを始めた。教室の後ろで飼っているメダカの水槽に手を入れて追い回していたかと思うと、「魚のつかみ取り」とメダカを握ってつかまえようとしたのだ。

 バラエティ番組の真似なのか、大きくリアクションを取りながらメダカを追い回す三人に、他のクラスメイトたちも笑い出す。

 たとえ小さなメダカでも、目の前で命が奪われるのを黙って見ていられなかった。早く担任が戻ってこないかと、柚果ははらはらしながら教室の入り口に目を走らせた。

 柚果の新しい担任は小林というベテラン教師で、学年主任でもあった。厳しいことで有名で、生徒たちから恐れられている。担任がやってくれば伊佐治たちは大人しくなるに違いない。

 待っていられず、廊下に出た。階段に向かうと、ちょうど上ってきた担任と鉢合わせた。柚果の説明に、担任は急いで教室へ駆けつけた。

「こら! お前らなにしてんだ!」
 廊下で様子をうかがっていた柚果の元にも、担任の声が響いてきた。伊佐治たちは担任に命じられ、濡れた床やロッカーを吹き始めた。

 騒ぎが収まってから目立たないように静かに入ったが、伊佐治は柚果を冷たい目で見ていた。それ以来、彼らは陰で柚果を「チクリ女」と呼んでいる。

 去年のクラスにも騒がしい男子たちはいた。けれどもさほど気にならなかったのは、栞と優愛がいたからだ。それに騒がしいと言っても彼らの言動は子供っぽく、先生に叱られている姿を、親友たちと一緒に笑っていればよかった。

 それに比べて、伊佐治は巧妙だった。教師に言いつけられないように、柚果にだけ聞こえるか聞こえないかの声で囁く。しかも実行するのはいつも本人ではなく取り巻きだ。たとえ柚果が抗議しても、ただの独り言であって柚果に向けたものではないと言い逃れをするのは明白だった。

 面と向かって言われなくても、囁きが聞こえるたびに心臓を掴まれるような苦しさを感じる。

 伊佐治は学年の中でも目立つ存在だ。悔しいが、整った顔をしている。鼻筋が通り、肌もきめが細かく、ある男性アイドルに似ていると評判だ。切れ長の目元は迫力があるが、笑ったとたんに八重歯が覗き、罪のない幼い顔になる。そのギャップに、叱っているはずの教師でさえもまなじりを下げた。

 そうなると、不良ぶった態度や、校則を破るファッションも、周囲の敬慕を集めるものになる。

 そんな伊佐治から睨まれていることは、校内での立場をなくすことと同義だった。伊佐治に近づきたい女子は多く、もちろん亜美もそのうちの一人だ。そのせいか、亜美やその取り巻きまで柚果に対してことさらに冷たい態度を取る。

 チャイムの音が鳴り、亜美の席を取り巻いていた女子たちが散っていく。柚果はほっとして自分の席に着いた。

 中学校など、一刻も早く卒業したい。残りまだ一年半。柚果にとって、まるで残りの寿命の半分にも感じられるほど、途方もなく長く感じられた。

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