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【小説】烏有へお還り 第8話

   第8話

『生理用品はちゃんと汚物入れに』
 トイレの個室の鍵を閉めると、ドアの裏側に貼られている紙が目に入った。

 普段から何度も見ているはずの文字が、弱っている心にはまるで責められているように感じられる。こらえていた涙が柚果の目にじわりと浮かんだ。

 鼻をすする音が、存外大きく響く。息を止めて外の様子に耳を傾けると、遠くから誰かの笑い声が聞こえた。

 トイレの床の冷たさが、上履きを通して身体に沁み込んでくる気がする。瞬きをくり返し、浮かんでいた涙を呑み込む。

 学校で過ごす時間の中で、昼休みが一番苦痛だった。三十分の休みは長すぎて、一人で席に座って過ごすには持て余してしまう。

 特に女子は「ぼっち」でいると目立つ。この時ばかりは、机につっぷして寝ていても自然でいられる男子がうらやましい。

 普段は人の目を避け、図書室で過ごしている。けれども今日は、伊藤さんと野口さんの席へ向かった。昨日たまたま二人と帰り道が一緒になり、いつになく親密に話せたことが嬉しかったからだ。

「うちのクラス、なんか雰囲気悪くない?」
「わかるー!」
 三人でクラスの悪口を言い合っていたら、結束感のようなものが生まれた。

 柚果がそうであるように、二人も教室では口数が少ない。けれども校門を出ると緊張感から解放されるのか、普段よりも心を開いてくれたような気がした───。

 しかし今日は、二人は揃って絵を描きながら、共にハマっているアニメについてひっきりなしに話している。柚果を歓迎する素振りはない。

 二人の会話はほとんど途切れず、柚果はせいぜい、描かれたイラストを称賛するひと言を挟んだだけだった。明らかな壁を感じながらも、なんとかして輪に加わろうと、二人の会話に耳を傾けていると、

「違うって、ほら、昨日見せたじゃん、うちで」
 伊藤さんが言いかけ、柚果の表情が曇ったことに気づいて口を噤んだ。野口さんも絵を描く手を止め、横目でちらりと柚果を見る。

「ごめん、わたしトイレ行ってくる」
 涙目になった顔を見せないように席を立ち、トイレへ駆け込んだ───。

 昨日、二人は柚果と別れた後に、待ち合わせて一緒に遊んだのだろう。

 同じ小学校出身の二人は家が近く、柚果だけは途中の三叉路で別の方角に折れなくてはいけない。思いがけなくクラスメイトとの楽しい時間が過ごせたことに、後ろ髪を引かれる思いで手を振って別れたのに。幸せな気持ちで帰宅した昨日の自分を思うとたまらなくなる。

 もう瞳は乾いていた。二人は別に柚果を仲間外れにしたわけではない。小学生からのつき合いで、部活動も一緒の二人には共通の話題がたくさんある。昨日一緒に遊ぶことは、前々からの約束だったのかもしれない。

 それでも疎外感が激しく胸を痛めつける。

『この後、うちで二人で遊ぶんだけど、よかったら筧さんも来ない?』
 そう言って誘ってくれてもよかったのではないか。そんな考えが勝手に浮かぶ。

 柚果はじっと唇を噛んだ。期待せず、割り切らないといけない。伊藤さんと野口さんはただのクラスメイトであり、親友と呼べるのは栞と優愛だ。

 けれども最近では、栞と優愛との間の親密さも、以前より薄れてしまっている気がする。ただクラスが隔てられただけで、こんなにも接点がなくなる。

 だからと言って、休み時間のたびに栞と優愛のところへ行く気にはなれない。よその教室に入ると奇異な目で見られてしまうし、クラスで浮いていることを栞や優愛に知られたくなかった。

 もう二学期も半ばだというのに、同じクラスに親しくつき合える相手がいない。自分のコミュニケーション能力の低さに嫌気がさす。

 小学生の時から、友達作りは下手だった。特に五、六年生の時は昼休みのたびにカウンセラールームで時間をつぶしていた。楽しかった去年が特別だったのだ。

 この先ずっと、高校生になっても、大学生になっても、大人になっても、うまく人とつき合えずに悩み続けるのだろうか。

 ふと、目の前の『生理用品はちゃんと汚物入れに』という貼り紙の隅に、小さな矢印が記されていることに気がついた。

 矢印は右を示し、その下に『ミロ』とごく小さく書かれた文字がある。矢印の示す方向に目をやると、別の貼り紙が目に入った。『トイレはきれいに使いましょう』という紙にも、同じように矢印が書いてある。今度は右下に向かって、斜めの矢印だ。

 矢印の先を目で辿った。トイレのタンクが邪魔でよく見えない。便座から立ち上がり、狭い隙間を覗き込んだ。
 タンクの下の壁に、よく見ると小さく文字が書いてあった。

『死ね』

 ドキっとして、柚果は顔をそむけた。誰か特定の人に充てた言葉なのか、または気づいた人だけに仕掛けた悪戯だろうか。だとしたら、なんて悪趣味なのだろう。
 それでも、その言葉は柚果の胸に深く食い込んだ。

『死ね』
 楽しそうな伊藤さんと野口さんの横で、疎外感を感じている自分が浮かぶ。

『死ね』
 廊下から栞と優愛が笑い合う姿を目にし、惨めにうなだれる自分が浮かぶ。

『死ね』
 弟の不登校を心配する母の姿と、それに腹を立てる自分が浮かぶ。

『死ね』
 死んだ方がいいのだろうか。

 視界がじわりとぼやける。
 死んだら楽になれる。この苦しみを終わらせることができる。

「いやもうバカっしょ」
「バカバカ。てか、マジでうざ」
 柚果は飛び上がった。誰かがトイレにやってきたのだ。息を殺してじっとしていると、二人の女子生徒がひっきりなしに誰かの悪口を言っているのが聞こえてきた。

「そういえばさ、あいつ。マジ最悪」
 声のひそめ方から、また別の誰かの悪口が始まるのがわかる。

「ああ、ぼっち。あいつマジでうざいよね」
 ドキッとした。『ぼっち』とは自分のことか。下半身が寒くなる。

「ぼっちのくせに仕切んなよ!」
「それ!」

 仕切り。なんのことだろう。少なくとも、柚果のことではない。息を呑み、耳をそばだてると、

「こないだ、あの体育の時!」
「あれ、マジでなんなの?」
 胸に苦いものが広がった。体育と聞いて、先日の倒立の練習を思い浮かべる。

「こっちが誘ってやってんのにさ、『ちょっと待ってて』って。あいつのせいでいつまでも三人組作れなくて、マジで恥かいた」

 言っているうちにその時の感情を思い出したのか、声に怒りが増してくる。
「『二人はこの子を入れてあげてねー』って、結局自分は別のぼっちと組むのかよ! 意味わかんねぇよ!」

『あたし志穂っていうの。高田志穂。よろしくね』
 そう言って、顔をくしゃっと歪ませて微笑んだ志穂の顔が浮かんだ。

 二人の声に聞き覚えはないが、おそらくあの体育の授業で、志穂の後ろにいた二人だ。名前は忘れたけれど、不機嫌そうな顔を覚えている。

「あいつの良い人アピール、超ウザイんだけど!」

 あの次の体育で、今度は倒立前転の練習があった。またしても三人組を作らなければいけない場面になったが、志穂が真っ先に柚果のところへやってきた。

「一緒に組もう」
 そう言われて嬉しかったが、彼女はそのまま他の女子たちがグループを作っていくのをじっと眺めており、別のもう一人に声をかけるそぶりを見せない。
 最後まで残った子は隣のクラスの子だった。志穂がすっ飛んでいき、柚果の元へ連れてきた。

「三人揃ったね」と笑顔を向ける志穂に、もやもやした気持ちが湧いた。この子は独りぼっちの可哀想な子を見つけて、お節介を焼くのが好きなのだろう。そう考えたら、自分がたまらなく惨めに思えた。

 志穂は廊下で柚果の顔を見かけるたびに、嬉しそうに合図をしてくる。そのたびに、柚果はおざなりに手を振った。同情されるほど気分の悪いことはない。

 仲良くする気になれないのには、もう一つ理由があった。志穂の目は、どこを向いているのかわからない。くしゃりと顔を歪める笑顔も、わざとらしく作られたものにしか見えなかった。

 予鈴が鳴った。「あー五時間目だるい」と言いながら、女子たちがトイレを出ていく。柚果はそっと個室を出ると、鏡に映った酷い顔の自分にため息をついた。

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