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【小説】烏有へお還り 第9話

   第9話

 改札を出て、正面の壁にかかっていた街の案内図を見る。昨夜のうちにスマホで調べておいた生涯学習会館を地図の中に見つけ、案内に従って南口へ向かった。

 誰の力も借りず、一人だけで電車に乗ったのは初めてだった。柚果の住む地域は駅まで遠く、バスの本数も少ない。両親とも車を所有しており、どこに行くにもたいていは車を使う。

 保護者なしで電車に乗ったのは、去年が初めてだった。栞と優愛と共にショッピングモールのある大きな駅に行った。その時も感じたが、少しだけ大人になった気がした。

 駅から生涯学習会館までは、歩いて十分ほどの道のりだ。賑やかな北口に比べて、南口はあまり人気がない。目立つ建物はパチンコ屋と、古びた雑居ビルくらいだ。

 動くものに目を引かれて柚果が振り返ると、駅舎の横にある自転車置き場に人影が見えた。柚果の視線から逃げるように、黒い塊がさっとビルの陰に消える。柚果はそこから目を逸らすと、足早に通り過ぎた。

 時おりスマホで確かめながら、生涯学習会館への道のりを辿る。秀玄彫り体験からは二週間が経っていた。あの日に彫った板は、柚果の机に飾ってある。

 柚果の彫ったいくつかの花の模様の中で、少年の彫った部分は明らかに違っていた。じっと眺めてから指でなぞると、道具に添えられた少年の指先や、無駄のない滑らかな動きが思い出された。

『おい、和志。こっち来て、こちらのお嬢さんを見てあげてくれ』
 作務衣を着た年配の男性の言葉を思い出す。

 和志と呼ばれた少年は、柚果とそれほど変わらない年齢に見えた。高校生くらいだろうか。それなのにあんなにも素晴らしい技術を身につけている。

 もし自分にも誇れるものがあったら、もっと自分に自信を持てるのかもしれない。たとえクラスで独りぼっちでいても、あの少年のように凛としていられたら。想像しただけで胸が熱くなる。

 生涯学習会館の建物が見えてきた。門をくぐり、広い駐車場を抜けて入り口へ向かう。しかし柚果はそこから中に入らず、建物の左手に向かった。

 今日は月に二度の秀玄彫りの体験教室の日だが、予約は入れていない。また来たのかと思われたら恥ずかしいし、あの少年の姿を一目見られたらそれでよかった。

 体験をした多目的室は、確か入り口から左手の一番奥にあった。柚果の座った席の近くの窓からは、雑木林が見えていたことを覚えている。

 いくつかの樹木が植えてある場所を通り過ぎ、建物の裏手に出た。落ち葉を踏みながら多目的室の窓に近づく。サッシにかじりつくようにして背伸びをすると、部屋の中にたくさんの人が座っているのが見えた。壇上には紺色の作務衣の男性もいる。

 しかし、部屋の中にあの少年の姿はなかった。必死に目を凝らすが、彼があの時に立っていた場所にも人影はない。

 サッシに引っかけた指が痛くなり、柚果は窓から離れた。つま先立ちも限界だった。痺れた足の裏を踏みしめ、指についた汚れを払う。

 彼はどうしたのだろうか。今日はお休みなのだろうか。ガッカリした気持ちで、窓を振り返る。もう会うことはできないのだろうか。

 肩からずり落ちかけたリュックサックの紐をかけ直し、ため息をついた。もと来た方へ戻ろうと、歩き出した時だった。落ち葉を踏む複数の乱暴な足音がして、目の前に黒い影が立ちはだかった。

「お前、なにやってんの」
 伊佐治とその取り巻きの男子二人だった。ああやっぱり。さっき駅前で一瞬だけ目にした姿は、やはり伊佐治たちだったのだ。

「別に」
 柚果の耳が熱くなる。サッシにかじりついていたところを見られていたのだろうか。逃げようとした柚果の進路を伊佐治が塞ぎ、残り二人も柚果を囲む。

「お前、さっき見たよな」
 伊佐治が鋭く言った。思わず息を呑む。

「なんのこと」
 しらばっくれたつもりだったが、自分でも白々しく聞こえた。三人の目に警戒の光が濃くなる。

 伊佐治たちの姿と、その手元の細長いものと立ち上る煙。たった一瞬目にした映像が、鮮明な記憶となって焼き付いている。伊佐治たちの慌てぶりからして、手にしていたものは煙草で間違いないのだろう。

「なんのこと~」
 男子の一人が柚果の口真似をし、もう一人が笑った。かっと頬が燃える。

「お前、チクるつもりだよな」
 伊佐治が一歩詰め寄った。

「しないよ!」
 柚果は慌てて叫んだが、

「嘘つけ」
「するに決まってんだろ、チクリ女」
 まるで柚果の方が軽蔑されて当然の行為をしたかのように、三人が口々に責め立ててくる。

「お前さぁ、偉そうにしてんじゃねえよ」
「自分のこと頭いいとでも思ってんだろ」
 言いがかりだ。理不尽さに腹が立つ。それなのに、なにも言い返せない自分が悔しい。

「言っとくけど、お前、みんなから嫌われてっからな」
 その言葉が胸に刺さった。

 柚果の目からとめどなく涙があふれる。両手で顔を覆い、必死で嗚咽を抑えた。

「どうする」
 泣き出した柚果を持て余したように、一人の男子が伊佐治に意見を求めた。もう一人の男子が、

「絶対チクるよ、こいつ」
 とぼやいた。柚果は言葉が出ないまま、涙を拭いながら首を横に振った。

「本当に? 誰にも言わねえ?」
 そう尋ねてきた声に向かって頷くと、

「言わないってさ」
 この場の収めどころを探すように、その男子が伊佐治ともう一人に向かってそう投げた。

 やっと終われる。内心の安堵を悟られないように、じっと耳を澄ませていると、

「じゃあさ、これ吸ってみろよ」
 伊佐治がそう言って、柚果に煙草の箱を差し出した。こわごわ顔を上げると、薄ら笑いを浮かべる伊佐治と目が合った。

「これ吸ったら信じてやるよ」
 二人の男子が驚いたように伊佐治を見た。柚果が凍り付いていると、伊佐治は眉を怒らせ、焦れたように煙草の箱を柚果に押しつける。その迫力に押されて、思わず手に取った。

「ほら、吸ってみ」
 続けてライターが押しつけられる。

「早くしろよ」
 伊佐治が苛立ち気に足元の落ち葉を蹴った。

 柚果の目に再び涙が盛り上がる。そんなことできるはずがない。

 煙草とライターを地面に投げつけ、柚果は駆け出した。しかしあっという間に追いつかれる。囲まれ、背中のリュックを引っ張られた。

 悲鳴を上げる。恐ろしかった。誰か助けて。何度も心の中で叫ぶ。誰か助けて。

「わかった。じゃあ、吸わなくていいよ」
 泣き続ける柚果に、伊佐治がなだめすかすように言った。

「火はつけないで、吸う真似だけでいいよ。指に挟んで、口につけるだけ」
 再び煙草を差し出される。身動きできない柚果に、

「ほら、簡単だろ。真似だけだって」
 と言いながら、手に煙草を押し付けてくる。

「俺らだって、本当にお前がチクらないか信用できないわけよ」
 伊佐治の言葉に、二人の男子が同意の声を挙げた。

「だからさ、ちょっと吸う真似だけしてよ。そしたら信じるから」

 優しい言い方をされて、断る勇気がしぼんでくる。さっき三人から責め立てられた時の恐怖を思い出すと身がすくんだ。機嫌を損ねて、今よりも悪い状況になりたくない。

 柚果はおそるおそる煙草を手にした。左手に持ち直してから、右の指の間に挟む。

「そうそう。なんだ、うまいじゃん」
 伊佐治の声に、これまで聞いたことのないような親しみがこもった。上目遣いの柚果に、優しく笑いかける。覗いた八重歯に胸が騒ぎ、伊佐治への嫌悪感や恐怖感がたちまち薄らいだ。

「筧、本当は吸ったことあんじゃん」
「ないよ!」

 目を瞠って叫んだ柚果に、伊佐治が噴き出した。男子二人までが笑い出し、さっきまでの緊張が解けてくる。柚果の固く閉じていた口元が緩んだ。

 もしこれを機に、伊佐治と親しくなることができたら。そんな考えが一瞬頭をよぎる。学校での柚果の立場は大きく変わるだろう。

「じゃあさ、それをこうして。それで最後」
 伊佐治が煙草を咥えるジェスチャーをする。言われるがままに、煙草を挟んだ右手を顔に近づけた。

 その瞬間、カシャカシャカシャという音が響いた。男子の一人が柚果にスマホを向けている。

「やめてよ!」
 体中の血が引いた。慌てて煙草を放り出し、スマホを奪おうと手を伸ばしたが、男子はするりと身をかわした。

 伊佐治に目をやると、彼はにやりと笑いながらスマホを手にした男子に合図を送った。騙された、と気づき、下半身がすうっと寒くなる。

「やめて! 返して!」

 スマホを手にした男子を追いかける。しかし彼はまるで誘導するように柚果と一定の距離を取ったまま逃げ回った。柚果の息が切れると、男子はもう一人に向かってスマホをパスする。

「やめてよ!」
 足元から崩れ落ちそうだった。あの写真がどんな風に使われるのか、想像するだけで吐き気がする。

「お前ら、なにしてんだ」
 飛んできた鋭い声に、柚果だけでなく三人が飛び上がった。振り返ると、あの秀玄彫り体験の時の少年が立っていた。

「別になにも」
 伊佐治がもごもごと呟いた。男子二人は声も出せないほど慌てている。さっきまでとは大違いだった。

「写真、撮ってたよな」
 少年の言葉に、三人が素知らぬふりで目を逸らす。

「消せよ」
 少年がそう言って、彼らに一歩迫った。スマホを手にした男子が怯えたように顔を引きつらせる。

「消せよ」
 少年が重ねて言った。伊佐治がスマホを手にしている男子に諦めの目を向ける。男子は「わかったよ」と呟き、画面を操作した。

「ほら、消したよ」
 男子がそう言って、画面を少年に向けた。伊佐治たちは顔を見合わせ、背を向けて去っていく。柚果には目もくれなかった。

「あの」
 伊佐治たちの姿が見えなくなってから、柚果は少年に向き直った。頬を拭い、頬に貼りついた髪を耳にかけ直す。

「ありがとうございました」
 そう言って、柚果は少年に向かって深く頭を下げた。

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