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【小説】烏有へお還り 第5話

   第5話

 ガレージに車がないのは、母がまだパート先から戻っていないことを示している。ドアの前で足を止めると、柚果は背負っていた通学鞄を下ろすために、手にしていたサブバックを両足の間に挟んだ。

 教科書とノートがパンパンに入った通学鞄は重く、滑り落ちそうになるそれを片手で抑えながら、もう片方の手で留め具を外す。水筒が入っているサブバックもずっしりと重い。

 ようやく取り出した鍵を差し込み、開錠してドアを開いた。そのとたん、玄関の隅にきちんと揃えられたスニーカーが目に入った。一瞬でイライラがつのる。

 階段に目をやった。二階の子供部屋を思い浮かべる。

 玄関の床に、わざと乱暴に荷物を放り出した。重い鞄が派手な音を立てる。耳を澄ませたが、上の部屋からはなんの気配もなかった。

 弟の大翔ひろとが学校に行かなくなったのは先月からだ。

「大翔、学校に行きたくないんですって」
 最初は風邪だと聞かされていた。しかしそれほど具合が悪そうにも見えず、一週間経っても一向に登校する気配のない弟の様子を不審に思って母に尋ねた。

「行きたくないって、どうして」
 予想もしていなかった返答に戸惑う。

「理由を聞いても、話してくれないの」
 母が目尻を下げた。困っているようではあるが、不機嫌ではなく、むしろ甘やかすような口調に、一瞬で頭に血が上る。

「ずるい」
 その一言で、母にはすべて伝わったようだった。面倒くさそうに柚果から目を逸らす。

 ──お母さんは忙しいんだからね。あんまり世話焼かせないでよ。

 いつだって余裕のない母に、学校で起こったこまごましたことを打ち明けることはできなかった。

 小学生の頃から、ずっと学校が嫌いだった。ある日、朝になってもベッドから出られずに「学校行きたくない」と泣いていたら、

「なにやってんの! 休んだら承知しないわよ!」
 布団の上から孫の手で叩かれた。それ以来、「学校を休みたい」と口にすることはできない。

 中学に入学し、栞と優愛という親友ができてからは、柚果の精神が安定したことを母も喜んでいた。しかし二年生になって暗い顔で帰ってくるようになっても、心配する素振りを見せず、様子を尋ねようともしない。

 柚果の話に耳を傾け、「学校を休みたい」と言われては困るのだ。

 もともと母はプレッシャーに弱い。いくつかの事象が重なると、すぐにイライラし始め、周囲に当たり散らす。真っ先に被害を受けるのはたいてい柚果だ。母の機嫌を損ねることは許されない。

「明日、学校か。いやだなぁ……」
 それでも、漏れ出てしまうことがある。日曜日の夕方になると、いつも気分が重い。しかし母はそんな時も、これ見よがしのため息をつくだけだった。

 それなのに、弟の不登校は簡単に許すのか。

「わたしのことは、休ませてくれなかったよね。なんで大翔はいいの?」

 怒りで声が震えた。母が口に指を当てて、そっと天井を見上げる。
「だって」
 声をひそませた。

「あんたと違って、あの子はこれまで学校に行きたくないなんて言ったことなかったもの。心配でしょ」

 なにそれ。

 怒りのあまり、柚果は言葉を継げなかった───。

 学校へ行かなくなった弟は部屋に引きこもり、食事の時だけダイニングへやってくる。母と柚果と弟、三人の食事はいつも気まずかった。父はいつも仕事で帰宅が遅い。

 母に対する腹立たしさで、柚果はひと言も口をきかない。弟もまた、口をきこうとせず無言で食べている。

 最初のうちは、母は二人の機嫌を取るように、パートで起こった面白い失敗談などを一人で話していた。しかし二人がまったく反応を示さないので、やがて諦めて黙るようになった。重苦しい空気のまま食事をするのは楽しくない。しかしその一方で、居心地の悪さに柚果は残忍な満足を覚えていた。

 それでいい。母や弟はもっと恥じ入るべきだ。もしそうでなければ、柚果は自分の気持ちを一体どこへ持っていけばよいのかわからなかった。

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