見出し画像

巨石文化を伝えた民族とは!?【縄文】文明の伝播【ゴムの国】卍と日神

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は巨石文化についてお話しさせて頂きます、よろしくお願いいたします。


巨石構造物で世界最古といわれているのは、トルコ南東部シャンルウルファで発見されたギョベクリ・テペが有名です。

この遺跡は紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられたとされています。

日本では縄文前期後葉の長野県阿久遺跡が現在最古とされ、日本最大のストーンサークルは縄文後期の秋田県大湯環状列石でその中の万座環状列石は最大径52メートルとなります。

北海道旭川市にある神居古潭(かむいこたん)のストーンサークルは紀元前2000年から1000年頃の共同墓地と考えられています。

地表には平らな石が立てられた状態で置かれた「立石」と、寝かせた状態で置かれた「敷石」が規則的に並べられ、これらの石の下には墓杭が確認されています。

東京の町田市には縄文後期の田端環状積石遺構があり、冬至の日没時には丹沢山地の蛭ヶ岳山頂部に太陽が沈む様子が見られます。

静岡県富士宮市にある千居遺跡は縄文前期末から後期前半までの遺跡ですが、ここで発見されたストーンサークルは長さ40メートル以上もあり、2基の列石跡は富士山に対して防波堤のように並んでおり、富士信仰との関わりが指摘されています。

考古学者の三上次男は巨石墓について次のように述べています。

巨石墓は側壁に大石を立て、上に天井石をのせたドルメンや、その拡大型と考えられる石室を持つ墓が中心で、側壁に小型の板石を横積みにしたものや持送式の天井を持つもの、岩盤や岩壁の側面に切り込んで墓室を作ったもの、及びそれらの多種多様な中間型を含めることもあり、さらに箱式石棺の類も区別困難な場合があると言います。


原則的に、巨石墓というのは横穴式で家族または氏族の墓として入り口が開閉できて追葬が可能な集葬墓であることが条件となり、土塚や積石塚、ストーン・サークルをめぐらすことも多いとあります。

巨石墓の中には石材を遠方から運搬したと考えられるものもあり、建築には多大な労働力を要し、さらにそれを可能にした社会的発展を背景としていることが推測できます。

所属文化は新石器末から鉄器時代に及び、年代も地域差が著しく、分布はヨーロッパからエチオピア、コーカサス、インド、インドネシア、コロンビアなど世界各地に及び、朝鮮半島の支石墓や日本の古墳なども広義には巨石墓の類として包括されると三上次男氏はいいます。

イギリスの考古学者ウォーリス・バッジによれば、
南インドの巨石文化は、かつてその土地の一般住民を形づくっていた矮(わい)人による埋葬遺跡だという伝承があるといいます。

「歴史以前の印度」(パンチャナン・ミトラ著)という書物によれば、エジプト古代文化がインドの巨石文化のルーツでありその巨石文化は、インドでは今尚人種的同一性は問題外として、前ドラヴィダ、原ドラヴィダ、オーストリック(オーストラロイド、ヴェダイキ)、チベット、ミャンマーなど、いろいろな種族の間に現存しているとあります。

非常に多くの類似点があるためエジプトの影響によるものとして、インドに於ける巨石祭祀の始まりはおおよそ紀元前2500年と比定しています。

このことは、デカン高原の巨石土器に印されている所有者の記号と前王朝及び原王朝時代のエジプトから発見されたものとの同一性によって証明できると述べています。

日本の歴史学者田畑喜作氏は、インドのドラヴィダ人は太陽を崇拝し、巨石の記念物を構築して卍を聖なる護符としたと述べています。

その風習が仏教にとり入れられて卍は寺院の紋章となり、この風習に関する種族を太陽巨石文化族と称しています。

古代の世界を展望すると、新石器時代から青銅器、鉄器時代にわたってきわめて特殊な文化の型が大きく地球上を一周していることに気づくと思います。

この文化は日神・月神を祖神とする多神教、巨石像や巨石記念物の建造、卍の紋章を神聖なる護符とする民族によって生まれたものと田畑氏はいいます。


巨大な岩を組み合せた建造物にはピラミッドをはじめとして、ケルト語で机石を意味するドルメンやストンサークル(環状列石)、メンヒル(立石)などがあり、これらはいずれも祭祀あるいは埋葬などの宗教的行事のために造られたものだと云われています。

これらの大規模な工事を完成するには、その労働力を支える食糧がなければならないので、巨石文化の人々は食糧を求めて放浪する採集者ではなく、すでに計画的な農耕・牧畜段階に達した文化的民族だったことが察せられます。

イギリスの探検家エリオット・スミスは、この文化を「太陽巨石文化」と名付け、地球上の各所に別々に発生したものではなく、一つの文化から発生し、古代オリエントを中核として、北はスカンジナヴィア、ウェールズに及び西はキプロス、クレタの島伝いにイタリア、スペイン、フランス、デンマークに拡がり、南はエジプトから北アフリカの沿岸に進み、東はイラン、インドを経て東アジアに波及し、さらにその分波はインドネシアからミクロネシア、ポリネシアの島々伝って中南米に達しています。

エリオット・スミスは、その発生地を地中海か、または北アフリカだと推定し、イギリスの歴史家ハーバート・ジョージ・ウェルズは、その文化の担い手を暗褐色の肌を持つ地中海人種であろうと述べ、この人種が地上に分散する数千年の過程で、その文化を発達させたとみています。

エジプトやメソポタミア、エーゲ海、インドなどの文明は、おそらくこの文化を基盤として発展したものだと云われています。

メソポタミアの古代都市ニップールでは、日神エン・リル、月神ニン・ギルスを祭るジッグラト(神塔)が築かれ、国王エレクは「太陽の子」として人々の上に君臨しています。

帝王を日神の裔とする思想は、アッカド、シリア、ヒッタイト、バビロニアの諸王国に継承され、さらにエジプトの古王国にも伝播しています。

上エジプトには鷹神ホルスをトーテムとする部族があり、下エジプトには太陽と蛇をトーテムとする部族があります。

太陽と蛇の部族はシリア方面から地中海を渡って南下した太陽巨石文化族で、やがてエジプトが統合されると、エジプト王室の紋章には蛇と鷹が併用され、国王は太陽の子オシリスの称号を名乗るようになります。

エジプトにピラミッドが建造されるようになったのは、太陽巨石文化の影響によるものでこの文化は地中海を西に進んで、イタリアや、スペイン、フランス、ドイツ、イギリスなどに拡がりましたが、その担い手は、クレタ人やエトルリア人、イベリア人、ケルト人など西アジアに起源を持つと思われる古代の民族です。

インドの西方にあるバルチスタンの海岸のマクラン地方には、紀元前3500年頃の遺跡があり、この遺跡から発掘された土器の破片には卍の紋章が刻まれていて太陽巨石文化の浸透を物語っています。

イランを経てインドに入ったその文化は、現在のパキスタンに位置するバルチスタンからインダス流域に拡がってインダス文明を開花させます。

ドラヴィダ人の間に伝わる日月信仰や蛇神の崇拝、卍の紋章はインダス時代以来の習俗が継承されたもので、インドのマイスール地方やデカン高原には、数千個の巨大なドルメンが残っています。

巨石の建造者はおそらくインダス流域から南下した太陽巨石文化族でこの種の遺構は、アッサムのナガ族、ミャンマーのカシ族・ガロ族・カチン族・北べトナムのモイ族、雲南のヤオ族などの山岳民族の間に残されており、紀元前1000年頃、揚子江の中・下流地域に住んでいたタイ族の間にも知られています。

中国大陸にも巨石文化は分布し、山東省や遼東省で発見されたドルメンは朝鮮半島南部のものと同型です。

朝鮮半島のドルメンは南方型と北方型との2つに区別されていて南方型ドルメンの形状は3個もしくは4個の石を立ててその上に一枚の巨石をのせています。これが碁盤の形に似ていることから碁盤型と称し、北方型ドルメンは下は4枚の扁平な石を高く組合せて四角形とし、その上に一枚の大きな石をのせています。
その形状が祠に似ていることから、これを祠型といいます。

福岡県須玖岡本遺跡のドルメンや愛媛県大洲市のドルメンは南方型の碁盤式ドルメンと同じです。

現在日本最古のドルメンは長崎県の原山支石墓群ですが(縄文時代終末期)これも碁盤型です。
※ 100基を越す集団墓地で日本最古最大級の支石墓群

インドから東南アジア、フィリピンに移った巨石文化の波は太平洋の島々を東に進み、マリアナ諸島のグアム、サイパン、テニアン島、カロリン諸島のポンペイ島さらにポリネシアのトンガ、タヒチなどにも石のピラミッドや石柱などの遺跡が発見されています。

イースター島のモアイ像は有名ですが、アフに建てられたモアイ像の中にはプカオと呼ばれる赤い石で作った冠を被り、長い耳と顎にはひげがあります。

この赤い冠り物は、ポリネシアでは高貴な人が使用していたものでこの習慣は南米の古代インカの習俗でもありました。


インカ帝国の創立は5世紀ころですが、これに先立ってプレ・インカと呼ばれる時代があります。

ボリビアにあるチチカカ湖やティアワナコには紀元前後、ピラミッドや太陽神を祀る神殿が建てられ、国王は「太陽の子」と呼ばれました。2015年にはティアワナコから地下のピラミッドが地中レーダーを使って発見されています。

中央アメリカではメキシコのユカタン半島やグァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドルに渡ってマヤ文化の遺跡があり、寺院やピラミッドが建造されました。

マヤ文化の研究家ジャン・フレデリックはマヤの建築術は石や石灰岩を使用し、ピラミッドや神殿、宮殿、球技場などの複雑な構造物を建設し、これらの建設物には天文学的な知識を反映しており、太陽や月、星の動きに基づいて配置されていたといいます。

メキシコ湾岸沿いの肥沃な低地には、中央アメリカ最古の文明を築いたオルメカ族の文明があります。

オルメカ文明は紀元前1500年頃から400年頃に栄えた文明で、巨石に彫刻をしたりピラミッドを築く建築技術、ヒスイなどの玉石を精妙に加工する技術などをもっていました。

オルメカは「ゴムの国の人」の意味で、ゴムを使って球技のボールやマスクなどを作っており植物から採取したラテックスという液体とアサガオのつるの汁などからゴムを作っていたといいます。

大きくて重いゴムボールを使った球技は危険を伴い、この土偶にあるような大きな防具を腰のまわりに着けていました、お相撲さんのまわしのようにも見えますが、球技は手足の使用は不可とされ競技者は腰や膝、腕を守る防具をつけていました。

その後、4世紀から9世紀頃にマヤ文明が栄え、マヤの最高神ククルカン(ケツァルコアトルと同神)を祀るピラミッドやコパンという大都市に築かれた神聖文字の階段などがマヤ文明の遺跡として有名です。

10世紀頃から12世紀頃にはトルテカ文明が栄え、その担い手となったトルテク人もピラミッドを建設しています。
※諸説あります

トルテク人は元々テオティワカンに住んでいたケツァルコアトルの神を崇める集団であり、具体的にはオトミ族やマトラツィンカ族という民族でトゥーラという城塞都市を築いています。

トルテク人はアステカ族に高度な文明を伝え14世紀頃からアステカ文明が栄えます。

アステカを侵略したスペイン人の記録によれば、
テオティワカンには太陽のピラミッドがあって、その頂上には太陽神トナティウの石像が祀られ、昇る朝日の光をうけて金の胸当てが神々しく輝いたと伝えています。

古代メキシコ文明は、日月信仰や巨石遺構を伴うばかりでなく、そのトーテムは蛇であり、太陽神クェツァルコアトルは半人半蛇の神として画かれています。 

※P•チャロエンワンサ著書「バンチェン倭人のルーツ」引用

同じ文化の波は、北アメリカのコロラド、アリゾナ、ニューメキシコにも波及し、これらの諸州にも巨大な崖の下に建てられた石の共同家屋や城砦、聖殿などの遺跡があり、ニューメキシコ州のチャコ・キャニオンの廃墟からは卍(アンサズ・スワスティカ)が画かれた土器が出土していて、これはコロラドのデンバー博物館に所蔵されています。

太陽巨石文化の分布した地域には、巨石や卍の紋章のほかに、一つの共通した特徴が見られます。

それは太陽の乗物に関する伝説です。イランやへブライ、バビロニア、ギリシア、インドなどの内陸地方では、太陽の乗物は馬車や鳥ですがエジプトや東南アジア、南洋諸島では太陽は船に乗って旅をすると信じられています。

スウェーデンやブリタニア、アイルランドなどの古墳には、しばしば「太陽の船」と呼ばれる壁画が刻まれています。

馬車の伝説が内陸地方に限られているのに対し、船の伝説は海に囲まれた島や、大陸の沿海地方に多いことに気づきますが、この場合の太陽は自然物としての太陽ではなく日神を崇拝する族長や首長を意味し、それが陸路で移住してきた土地では馬車を乗物とし海を渡ってきた場合は船を乗物とします。

それが「太陽の馬車」や「太陽の船」の伝説を生んだと考えられています。

古代エジプトの帝王はミイラにして埋葬されましたが、その際死体とともに船が埋められ、これは帝王を故郷の冥府に運ぶためのもので太陽の船と呼ばれました。

エジプト学者はこの風習を当時のエジブト人が太陽は船に乗って旅をするという宇宙観にもとづくものだと説明していますが、彼らの祖先は海を渡って来たため祖先の土地に戻るには海を渡って帰らなければならないので、船が一緒に埋められました。

これはエジプトだけでなく日本やスウェーデン、アイルランドなどの古墳にも太陽の船が描かれています。

日本におけるエジプト学の先駆者である鈴木八司によれば、紀元前2800年頃、シュメールでは大洪水があり
エシプト第四王朝は、破壊された両河地帯に支配を及ぼしウセルカフが第五王朝をたてた時に第四王朝の人々の一部はラガシュに移住して、ヨーロッパと南インドにも貿易支配を及ぼした結果、巨石墓が拡がったのではないかと推測し、巨石墓は地中海のドラヴィダ人がインダスからインド各地に移動したことによって作られたと結論付けています。


アメリカのエジプト学者トーマスエリック・ピートは、建築のために石を使用することは、多くの場所で独立に起ったかもしれないと前置きをし、しかし側壁一つに穴のある構築および盃状の穴の存在は巨石地域の全体にあり、事実、巨石建築が広く拡がり、しかも同祖的な体系で地方的相違にかかわらず、常に単一の起源を示す共通した特質を保有することは明らかであると述べています。


さらにウォレン・チャーニングは「巨石構築物に使用されているキュービット尺は皆、一系統に属し、単一な比例において非常によく似ており、世界中の先史時代の計測に奇妙な関係があり、単位又は基礎は、一キュービットが一八インチとしての四キュービット、すなわち八〇及一〇〇デジットに分かたれる七二帝国法定インチに当る尋であった」と述べています。
※ 帝国法定インチ=英国のインチを日本の尺に換算したもの
※ 1及は約118センチ
※1キュービットは50センチ弱


エリオット・スミスはこの巨石文化の伝達を「エジプトのピラミッドその他の巨石記念物や印度洋沿岸や島々、環太平洋の島々における巨石文化は、エジプトで巨石記念物を建造した民族が東方へ移動し、その上陸した処に巨石文化をのこして(中略)巨石文化は太陽崇拝と結合している」として、
紀元前8世紀頃のフェニキア人が巨石文化の伝達者であるとしています。

ウォレンは度量衡学の視点から、北東インド及びそこからインドネシアへの巨石民族の影響を証明し、パンチャナン・ミトラは(歴史以前の印度)これらはインドが、エジプト及び中央アジアと親密な文化接触をした時代のことで、おおよそ紀元前2500年ないし800年の間に位すると考えられると結論づけています。




今回は巨石文化について様々な学者の見解を見ていきました。

今回は巨石に着目しましたが、文化特有の伝播は巨石の他にも文様や紋章、辟邪などの遺物にも見られますので様々な視点から調べてみてください。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいてぜひ皆さんも調べてみて下さい。下記の参考書籍もぜひ読んでみてください。
最後までご覧いただきありがとうございました😊

📖参考書籍📖
P•チャロエンワンサ/鹿島曻著書「バンチェン倭人のルーツ」
ウォーリス・バッジ伝「古代発掘の物語」
パンチャナン・ミトラ著書「歴史以前の印度」
田畑喜作著書「高天ケ原は実在したー原日本人の発見」
三上次男著書「満鮮原始墳墓の研究」「中国古代史研究 第4」
ファン・デル・ホープ 著 野原達夫訳「インドネシアの原始文化」
鈴木八司著書「王と神とナイル 沈黙の世界史2」
新人物往来社「謎の巨石文明と古代日本」
フランシス・マジェール著 早津敏彦 服部研二 共訳「イースター島の巨石文明」
駒井和愛著書「日本の巨石文化」
ジェラルド・S・ホーキンズ 小泉 源太郎「巨石文明の謎」
上條耿之介著書「日本の文様 その成立と展開」
鹿島曻「倭と日本建国史」「日本ユダヤ王朝の謎」「史記解」
ボリス・ピオトロフスキー著 加藤九祚訳「埋もれた古代王国のなぞ 幻の国からウラルトゥを探る」
大林太良編集「民族の世界史6東南アジアの民族と歴史」
小谷部全一郎著書「日本及日本國民之起原」
三笠宮崇仁・赤司道雄著書「フィネガン古代文化の光」
三森定男著書「印度未開民族 」
蔡鳳書 山東省の古代文化と日本弥生文化の源流 https://nichibun.repo.nii.ac.jp/record/688/files/nk25010.pdf

余裕のある方はサポートして頂けたら嬉しいです☆*