見出し画像

令和阿房列車論~その33『時刻表昭和史【完全版】』(3)急行5列車下関行

前回のおさらい

毎週各章ごとに書評をしていく記事ですが、相変わらず読書の習慣がほとんどないのが痛いです。


第3章 急行5列車下関行〜昭和10年

宮脇俊三、初めての寝台車

この年、宮脇俊三は母と女学校に進学したいちばん下の姉とともに宮脇の両親の故郷である四国香川県に行ったのでした。宮脇の祖母たちに孫を見せたかったと書かれているのですが、母にとっては里帰りであっても当時から時刻表に興味を示しはじめた宮脇少年にとっては当時の花形特急「富士」に乗りたいと画策していたエピソードが書かれています。

昭和10年当時の特急列車は前章で記述したとおり「富士」「櫻」そして神戸までの「燕」だけで、宮脇少年と母と姉は東京駅午後9時発の急行5列車の二等寝台車で岡山まで乗車して、宇野線から宇高連絡船、高徳本線をへて実家に向かったのでした。

昭和10年当時の旅行事情も描かれています。

令和のJRではほとんど見られなくなった旅行者を世話する給仕(ボーイ)や赤帽という旅行者の荷物を運ぶ人がいたのでした。
令和の今でこそ旅行者自身でカートを引いて動く姿は見かけますが、当時は旅行そのものが珍しいことでもあって国内の旅行であっても今日の海外旅行ぐらいの荷物を携えていたようです。

また、宮脇少年は乗車した急行列車の食堂車に行きたかったのでしたが寝台車の中で持参の弁当を食したとあり、当時の食堂車は宮脇少年ほどの身分のものでも敷居が高い場所だったのかもしれません。

私の8歳〜昭和50年

8歳当時の私(a-ki阿房列車)は初めて道央(札幌都市圏)を離れて道東の根室で生活することになった年でした。

根室に向かう記憶はしっかり残っていて、札幌始発の下り急行「狩勝4号」のA寝台車で釧路まで行き、釧路から下り急行「ノサップ1号」で根室に向かったと記憶しています。
当時、両親と幼稚園を卒園した弟、そして私の家族4人でA寝台車をしたのは父親の転勤によるものだったのと旅行慣れしていない我々家族への考慮だったのでしょう。

根室行き下り急行「ノサップ1号」はおよそ2時間半かけて根室に向かうのですが、何もない荒れ地をただただキハ56形気動車の3両編成で進むさまは子供ながらに遠い土地に来たと感じていました。

今でこそ1両編成の快速列車でおよそ2時間強で走破してしまうこの区間ですが、昭和50年当時は非力な気動車でゆっくりと走り、普通列車ではさらに長時間停車するのもあって3時間半かかる列車もありました。
それでも空気輸送といわれる現在とは違って国鉄も根室の街もまだ賑やかな活気がありました。

時代や環境は違えど、私も宮脇先生もこの年代で鉄道に対する造詣はいっそう深まっていくのでした。

#読書感想文

この記事が参加している募集

#読書感想文

187,854件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?