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【長編小説】 パリに暮らして 1

 一ヶ月滞在の予定で、パリを訪れた。

 フランス語は、日本にいるあいだに死にものぐるいで勉強した。過去に少しの学習経験があったとはいえ、私の鬼気迫るほどの学習意欲には、専属のチューターを務めてくれたベルトラン先生もたじろいだほどだった。けれどそのとき、私には確固たる決心があったのだ。短期間のうちに何としてもこの難解な言語を習得して、決して現地での意思疎通に困ることのないようにしておきたい、と。

 それに、パリは〝中継地点〟……。直行便のない目的地へ行こうとしている私には、いったん降り立たなければならないこの街に少しのあいだ腰を落ち着け、時間を取って、あるひとつの計画を練り上げるということは、自分の性質にふさわしいちょうどよいスタンスのように思われた。

 ――カフェ・クレスポは、パリのなかでも下町のような、庶民的な雰囲気を持つ二十区のメニルモンタンにある。私の間借りした家は同じ界隈にあったので、夕刻を迎えて小腹の空くころ、ここで出される軽食の匂いに釣られてふらっと入り込んだのが始まりだった。

 借りている部屋の契約には食事が付いておらず、食事はもっぱら冷たいハムやパテやチーズを買い込んで、バゲットに挟んで食べるくらいのことしかしていなかった私は、このカフェに出会って以来、毎日日替わりで出される温かいスープセットのとりこになってしまった。

 カフェの主人はスペイン出身のユダヤ人だった。まだずいぶん若いころにパリに移り住んで、カフェのボーイや荷役人夫、石炭売りなどをして生計を立てた。そして、長い年月と血の滲むような努力の末、資金を貯めて十五年前にここメニルモンタンに自分の店を構えることができたという。おとなしく、どちらかと言えば無口なこの店の主人は、内気そうにはにかみながら、遠い国から来た私に自分の身の上をぽつりぽつりと話してくれた。厳格なユダヤの教えを守って暮らしながら、幼少期を過ごしたアンダルシア地方の太陽をいまでも忘れられないでいるという。そして、アンダルシアの村でいつも可愛がってくれた隣人の老夫婦の姓にちなんで、自分のカフェを〝クレスポ〟と名づけた。
「毎朝店に来て看板を見上げるたびに、彼らが見守ってくれているような気がするんですよ」
 と、ムッシュ・グンデルフィンガーは小さく笑った。

 到着して三日後、私は、自分の間借りしている家についての悩みを吐露していた。実際、この家は下宿人をもてなそうという気はさらさらないようだった。基本的に喫煙者でない女性の間借り人をひとりと決めているようで、週払いの家賃は六十ユーロという底を打つ安さだった。私はそこに魅力を感じて間借りを申し込んだのだったが、いざ到着して下宿に入ってみると、現実は想像を超えたものだった。

 宿主のマダム・オリーブは、緑っぽい顔色をした痩せぎすの中年女性で、絶望したような精気のない目とこけた、、、頬の持ち主だった。彼女は決して笑顔になることのない人だった。遠い異国からやって来てようやく玄関口に立った間借り人に無愛想に応対して、彼女の住んでいる一軒家の二階に案内した。

 メニルモンタンの界隈でも低所得者層の住む一画にあるその家は、玄関に入ると、直接すぐにマダム・オリーブの居間があり、緑色の絨毯じゅうたんが敷きつめられたその空間は骨董品店のような匂いがした。その奥には細長い造りの狭い台所があって、裏庭に面して細く開かれている勝手口からは、黒い猫が自由に出入りしていた。 
 この台所に、マダム・オリーブは決して他人を入れなかった。間借り人にも、その聖域への侵入は厳しく禁じられた。居間を通り抜けて、台所と浴室に挟まれた狭い階段を上ると、すぐにせせこましいマダム・オリーブの寝室がある。その隣のもっとせせこましい部屋が、私の下宿部屋だった。
 私がもっとも閉口したのは、シャワーに関する問題だった。マダム・オリーブが言うには、この界隈はシャワーのお湯を沸かすボイラーがとても古いために熱効率が悪く、電気代が馬鹿にならない。だから倹約のために、体を洗うのは週に一回と決めているのだ、と彼女は言った。秋口で空気は乾燥し、汗をかくこともないとはいえ、それは私にはなかなか耐えがたいことだった。毎日シャワーだけは浴びたい、と頼むと、彼女はしぶしぶ承諾した。が、お湯を使うのは三分以内に留めるように、と釘を刺すのだった。私が驚いてそんな短い時間では全身洗えないと言うと、彼女のほうも驚いた顔をして、オー、ララー! いったいどうしてシャワーを浴びるのにそんなに時間がかかるんだい? 二分もあれば、充分じゃないのかい? と言った。

 根気の要る交渉の結果、私は毎日充分なシャワーの時間を確保するために、彼女の電気代を補填ほてんするということで決着がついた。それは一回につき、三ユーロだった。

「それはひどい宿主だね」

 不意に、日本語が耳に飛び込んできた。私は英語も解するムッシュ・グンデルフィンガーに、フランス語よりはまだ自由に思っていることを表現できる英語で自分の惨状を説明しているところだった。パリに降り立ってからずっと、流暢りゅうちょうとはいえないフランス語で厄介な交渉をし続けて疲れ切っていた私は、ここで英語を使えるということに一種の安らぎを覚えていたところだったので、突然左側の耳から入ってきた母国の言葉に、一瞬混乱した。

 驚いてそちらを見ると、ひとりの男性が微笑んでいた。彼はいつの間にか、カウンターにいる私の、ひとつ椅子を空けた隣に座っていた。
「失礼ですが、日本人ですか?」
 彼は丁寧な日本語で尋ねた。発音から、ネイティブな日本人であることがわかった。
 全体的に細身で色が白く、手足も同じように細長い、特徴的な体型をしていた。やや長めのふんわりと横に流した黒髪は、染めているのだろうか。肌の感じから言えば四十代半ばから五十代前半といったところなのに、髪の毛のせいでやけに若く見えた。
「マスター、エールを二つ」
 私がうなづくと、彼は手慣れた様子でビールを頼んだ。どうやらここの常連らしい。ムッシュ・グンデルフィンガーは口角を上げて顎を引く、彼独特の微笑み方で応じると、カウンターに備えつけてあるビアサーバーからグラスに静かにエールを注ぎ始めた。
「ビールは好き? おごるよ」
 彼は軽く弾むように、楽しそうに言った。

 それが、柊二しゅうじさんとの出会いだった。
 

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