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【長編小説】 パリに暮らして 2 

 ――彼は自分のことを〝シュウジ〟と名乗った。木偏きへんに冬、二番の二、と彼は言った。名字はいつかほかの機会に聞いたことがあったと思うのだけれど、忘れてしまった。いつも柊二さん、柊二さんとばかり呼んでいたから。

 柊二さんはその日、実によく喋った。三十年前にパリに来たこと、それからずっとこの都市に住み続けていること、一度結婚したけれど、いまは独りであること……。普通は初対面の人に向かって言わないであろう個人的なことを、聞きもしないのに自分から喋った。
「――こんなところ、ホントは居たくないよ。何だか不健康でね……。だけどここには、生きることに疲れてしまった者たちが傷をめあうことのできる場所があるんだ……。それがどうにも心地よくってね。安住しちゃうんだよね」
 彼は気持ちよさそうにそう言うと、二杯目のビールを注文した。一杯一パイント(約五六八ml)のグラスをハイピッチで空けたばかりなのに、顔色ひとつ変えずに。よくそんなに飲めるものだな、と感心しながら私は眺めていた。けれどそれはパリの街にしっくり合う、とてもこなれた仕草だった。人生に疲れた、というようなことを言いつつ、こちらが気恥ずかしくなるくらいスマートに、むしろキザな響きさえ含ませながら、聞いていて気持ちのよくなるような通る声でお酒を注文するのだ。

 ――シャワーを浴びるたびにお金を払わなければならないなんて、馬鹿げてる。良かったら、うちに移ってくればいいよ。
 柊二さんは言った。彼は夕食を作ってくれると言い、私はその夜から柊二さんのアパルトマンに移動することになった。渡りに船とそれにすがったのは、正直マダム・オリーブの下宿でこの先ひと月を過ごせる自信がなかったからだ。
 私が部屋を出ることを告げると、マダム・オリーブは小さな声でブツブツ言った。が、意外にも安い部屋代に間借り人は常に何人も待機状態だということで、今日出ていってくれても構わないと言われた。

 「七時ごろに来て」と言った柊二さんの言葉を思い出しながら、私はスーツケースを転がし、小さなスーパーに寄って赤ワインのボトルを買った。男性の家に滞在させてもらうというのには少し身構えたけれど、ムッシュ・グンデルフィンガーやほかの常連客とのやりとりを見ていて、彼がこの界隈で親しまれ、ある種の人格者として信用されていることがわかったことは、警戒心を薄れさせた。それに柊二さんの誘い方はあまりにも気軽すぎて、断ることのほうが異常なことのように感じられるほどだった。そして何より、シャワーを浴びるごとにお金を払わなくてもいいという魅力には、抗えなかった。

 柊二さんのアパルトマンは、カフェ・クレスポのある通りから大きな交差点を隔てて三本目のところにあった。わかりやすい、大通りに面した古い建物で、ゴシック建築というのだろうか、重厚感のある造りだった。
 鉄柵の門扉を開けると、小さな庭があって、そこを通り抜けて半円形のアーチをくぐる。すると右側にエントランスがあり、左側の壁に各部屋の呼び鈴のボタンが並んでいた。教えてもらった番号のボタンを押すと、ブーッという耳障りなブザー音がして、エントランスのロックが解除された。
 エレベーターはなく、階段で三階まで上がると、踊り場の突き当たりに柊二さんのアパルトマンの扉があった。呼び鈴の代わりに、扉の上に古めかしい鉄製のノッカーがついていた。

 ノッカーを叩くとすぐに、柊二さんが扉を開けた。
「やあ、いらっしゃい」
 気さくな様子で一歩下がると、左手を広げて私を通してくれた。
 アパルトマンに入ると、夕飯の準備のいい匂いが立ち籠めていた。何かがオーブンのなかで調理されているようだった。柊二さんはエプロンをつけていて、たったいままで水仕事をしていたのだろう、まだ半分湿った両手をしきりに拭っていた。
「ごめんなさい、来るの早すぎたかしら?」
 私はワインを差し出しながら言った。
「いいや、ちょうどいい時間だよ。料理ももうすぐでき上がる」
 私に上着を脱ぐように促しながら、柊二さんは笑った。そして客用の寝室に案内し、荷物を置かせてくれた。
 食前酒アペリティフに、柊二さんはベルムースの炭酸割りを作ってくれた。アニスの香りが立ったきつい薬草の匂いがして、私はあまり好きではなかった。わっ、と言って顔をしかめる私を見て、柊二さんはいたずらっ子のように笑った。
「お客さんが来ると、いつもわざとこの飲み物を出すんだよ。ウエルカムドリンク」
「……ひどい。ちょっとこれは私、苦手だわ」
 私は笑いながらそのグラスをテーブルの脇によけると、プレイスマットを敷き、フォークとナイフを並べていった。柊二さんはそのあいだ、台所に行って、オーブンのなかを確認していた。
「今日は、〝オソブコ〟を作ろうと思ってたんだけど……」
 普通は仔牛のすね肉で作るのだというその煮込み料理を、買い出しに行ったら綺麗な仔羊ラム肉があったのでそっちでやってみた、と、自慢げに柊二さんは言った。私は仔羊ラム肉を食べるのは初めてだったけれど、最初にアパルトマンに入ったときに調理されている匂いを嗅いでから、すでにそれを口に入れるのが楽しみになっていた。
 テーブルの上に出された煮込みは、それはもう素晴らしかった。柊二さんは独り暮らしのせいか、普段からかなり料理をするらしく、味付けも数種の香辛料を使ってまったくのオリジナルだということだったが、まるで一流のシェフが作ったかのように美味しいのだった。「煮込み料理は半分はオーブンが作ってくれるんだよ」と彼は言ったが、それは謙遜けんそんに違いなかった。
 私たちは、私の持参したワインとともに仔羊ラム肉を満腹になるまで楽しんだ。
 「フランスでは、食後に必ずこれを食べるんだ」
 と言うと、柊二さんは冷蔵庫から何種類ものチーズを出してきた。それらは円筒形のガラスの蓋を被せた木製の丸い器に盛られていて、日常食べられている証に、それぞれ違う大きさや形をしていた。
「これはスイスの牛のチーズ、これはフランスの山羊のチーズ。こっちのは、トウガラシの入った変わり種。それから……」
 柊二さんは嬉しそうに、チーズの説明をしてくれた。全部で五、六種類はあっただろうか。それぞれに合うワインがあるそうで、また冷蔵庫の方に戻ると、封を切った三種類のワインを抱えて戻って来て、また説明を続けるのだった。
「フランスの人って、すごいのね。毎日こんな生活をしているの?」
「いや、皆が皆というわけではないよ。フランス人でも、これほど凝らない人だっている。もちろん僕よりうんと凝る人もいるけどね。人それぞれだよ。最近はビール党の人も増えてるって聞くし」
 気軽そうな様子で柊二さんはそう言うと、使い込まれたチーズナイフを使って器用にチーズを切り分け、少しずつ私の皿に載せてくれた。
「色んな味を少しずつ試すのって、楽しいね」
 私がバゲットにそれぞれのチーズを塗っていくのを見て、柊二さんは満足げに微笑んだ。
「それこそが、人生の醍醐味」
 そうやって、私達はその晩何杯目になるかわからないワインのグラスを重ねていった。

 
 ――あの計画のことを、すべてではないにしろ、彼に話してしまったのは、素晴らしい食事に続く、ワインの宴の勢いのせいだったのだろうか。柊二さんはふところの深い人で、話がはずみやすく、その晩私たちは、世のなかにあるありとあらゆることについて話したと思う。彼は実に色んな引き出しを持っていて、明らかに私より多様な世界を知っていた。
 柊二さんは自宅に置いてあるワインを開けながら、これまで彼の見てきたさまざまな出来事を話してくれた。それは信じられないくらい奇異な出来事であったり、私自身の尺度では到底受け入れられない話であったりもした。なかには、判断抜きでただただ底抜けに可笑しな話もあって、完全に酔っ払っていた私は、アパートじゅうに響き渡るような笑い声を立てて笑ってしまった。けれど、そんな私をたしなめるどころか、柊二さんも一緒になって大笑いするのだった。
 そんな雰囲気ができ上がってしまっていたものだから、つい私の口から、心に秘めておくべき言葉が漏れてしまったのかもしれない。

「――愛していた人を、殺してやろうと思うくらい憎んだことって、ある?」
 うつむいた私は、不意に口をついてその言葉が出たことに、自分でも驚いていた。目の前のものが揺らいで見え、ワインの酔いがかなり回っていたとはいえ。
 一瞬、柊二さんの動きが止まった。私の奥にある、まだ見えない何かを探るような目つきになって、じっと私の顔を覗きこんできた。そうしながら、自分の記憶を辿り直しているような表情をした。
「……いや」
 しばらくしてから彼は言った。
「そういうことはないかな、僕には。昔愛した人を、憎んだことはあるかもしれない。でも、殺してやろうとまでは思わなかった。よく覚えてないけどね。ずいぶん昔のことだ」
「そう」
「何かあったの?」
「私、パリを出たらね、別のところに行くの。ある計画があるのよ……。その人……。ある人に、会いに行くの。とても会いたい人……。でも彼に会ったら、私、多分、普通ではいられない。穏やかに笑ってハーイ、久しぶり、なんて言ってハグしたりとかはできないと思う。この気持ちを拭い去るために、多分、私、何かやるわ。とにかく……彼を完全に記憶から消してしまうために、何かしなければと思ってる。そうしないと、どうしても前に進めないから」
 止めようと思いながらも、言葉は次々に流れ続けた。いままで張り詰めていたものに小さな裂け目が開いて、液体化したものが少しずつ溢れ出ていくような感じだった。

 喋りながら私は、段々と自分の意識が遙か遠くに退いていくのを感じていた。酔いが回りすぎていたのか、目の前のことに注意を集中できなくなってきていた。

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