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【長編小説】 初夏の追想 23

 ――祖父の離れに戻った私を犬塚夫人が訪ねて来たのは、その一週間後のことだった。祖父は篠田の画廊に用があり、出かけていて留守だった。
 私は彼女を二階のバルコニーに案内した。
 その日彼女は、濃い臙脂えんじ色の袖無しのワンピースドレスを着ていた。臙脂の色は白すぎる肌に映えて、まるで赤黒い血の色のように見えた。少し痩せたようで、まだ憔悴しょうすいしているように見えたが、私の顔を見ると彼女は微笑みを見せた。
 彼女はラタン椅子に腰かけると、いつもそうするように、ドレスの裾をひるがえらせるようにして脚を組みながら、守弥が退院したことを告げた。
「守弥はすっかり元気になりました。……と言うより、別人のようになったわ。情緒が安定しています」
 彼女は微笑みながらそう言った。その瞳は喜びに輝いていた。そして彼女は、私に向かって真摯しんしに礼を言った。
「守弥君は、もう大丈夫だと思います」
 私はコーヒーを勧めながら言った。彼女はカップを手に取ると、ほんの少しだけ口をつけた。
 ――あの口づけを交わした日以来、彼女と二人きりになるのは初めてだった。彼女のその仕草を見て、私はどうしても、あのときのことを思い出さないわけにはいかなかった。
 夏はもう終わろうとしており、バルコニーには遠くの山々から吹き渡ってくる風が秋の訪れを予感させる冷涼な空気を運んできていた。
「守弥は、病気ではなかった」
 ぽつりと独り言を言うように、犬塚夫人は呟いた。
「もう、薬も必要ない」
 私は言った。彼女はこくりとうなづくと、遠くの山のほうへ目をやって、しばらく黙っていた。そのとき彼女の心の中に何が去来していたのか、私には想像することもできなかった。彼女はまた、あの能面のような、まったく感情の読めない表情になっていた。
 彼女はまるで美しいオブジェのように、私の目の前に座っていた。彼女が何も話さずとも、私はその姿を見ているだけで、自分の中にひとりでに湧き起こってくる気持ちを味わわずにはいられなかった。彼女は美しかった。残酷なほどに。そしてまた、痛々しいほどに。
 
 ……ふと、山の稜線から目を外した彼女は、私のほうに向き直って、こう言った。
「あのときのこと、覚えている?」
 守弥とそっくり同じ顔で、同じ言葉を彼女は発した。心のなかで母子おやこのイメージが重なり合い、私は軽い目眩めまいを覚えた。ええ、覚えています、と返すのが精一杯だった。
「あんなことをして、ごめんなさい。でも」
「でも?」
「あなたと話をしたとき、あなたとは深く理解し合えるかもしれないと感じたの。……それで、試してみたかったの。どんなことが起こるか」
「……それで……、何も起きなかったということですね」
 自嘲的な気持ちになって私は言った。あの日、彼女と部屋にいた若い男に負けたような気がした。彼女はうつむいてふふっ、と笑った。
「そこまでは言ってないわ。何も起きなかったというわけではない……それは断言できるわね」
「あなたのあのときの表情を、よく覚えています」
 私は重ねて言った。すると彼女は私の目をじっと見返して、
「誤解しないで」
 と微笑んだ。
「あなたは素敵だったわ。ただ……。私がずっと追い求めてあがいている、、、、、、ものとは、ほんの少し違っていたの。それだけのことよ」
 彼女は謎めいた微笑みを浮かべながら言った。そしてその言葉が私の中に浸透していくのを待っていた。
 私は無言で、彼女の次の言葉を待った。
「一度起きた奇跡は、二度と起こらない。人生のうちで、この上何かを望むなんて、贅沢なことだったのよね」
「どういうことですか?」
 彼女はカップを手に取ると、もうひと口コーヒーを飲んだ。
「私の生き方を、あなたがどうお思いになるかわからないけど、でもどうしてもあなたにだけは、わかっていて欲しいことがありましたの」
 かしこまった口調になって彼女は言った。
「何でしょう?」
 私は問うた。彼女はまた微笑んで、
「守弥は私にとって宝物なの。天からの授かりものと言ってもいいかもしれない……。それをもたらしてくれたものに、私は無限の感謝を捧げて生きているのです。……あのときの光明と、どうにかしてもう一度繋がりたい……。それこそが、私が追い求めているものなの」
 と言った。
「お願い。このことを、あなたに覚えていて欲しいの。あなたは特別な人よ。そしてこの先きっと、お会いすることはないでしょうから」
 彼女は真剣な顔をしてそう言うと、私の目をじっと見つめた。そのとき彼女の瞳は深い色合いを帯び、私は底無しの深淵をのぞき込んでいるような気分になった。
「覚えておく……。記憶に留めておくだけでいいのですね?」
 私は言った。彼女という美しい憧れの対象が、急激に遠い存在になろうとしていた。
 一瞬、彼女は切なそうに顔をゆがめ、
「それだけでいいわ」
 と言った。
 
 
 あのバルコニーで彼女との対話を終えたとき、私の経験は終わった。私たちは互いに見つめ合いながら、ごうごうと森を吹き渡ってくる風に吹かれていた。
 
 ――この避暑地の晩夏であった――。

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