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【長編小説】 異端児ヴィンス 2
その日私は、テオとどうしても折り合えない状況に陥って、いつものようにアパートを出奔し、ひとりでこのビア・パブに避難してきていた。Dieu du Ciel !《デュー・デュ・シエル》――天の神様!――という魅惑的な名を冠したこのパブは、ミクロ・ブルワリー、つまり地域の小規模な醸造所がそこで作ったオリジナルビールを出す店として有名だった。中でも人気なのは大麻を原料として作られたヘンプ・ビール。勿論違
もっとみる【長編小説】 異端児ヴィンス 3
「……両親のことを気にかけてるなんて言っている間はさ、君、結局誰も自立できていないってことなんだよ」
トバイアスは言った。サンドラが帰った後、入れ替わるように彼女のいた席に座った彼は、大きな目を充血させながら、一杯目のエールを飲んでいた。
褐色の細面の顔に、きつい天然パーマの髪を短く刈り込んだトバイアスはカリブ海に浮かぶ島国、トリニダード・トバゴ出身の26歳。モントリオールに来てまだ3ヶ月と
【長編小説】 異端児ヴィンス 4
ラテン系の美女は、ヴィンスを残して帰っていった。彼女の席が空き、またちょうどそのとき満席だった我々のテーブルに常連のひとりであるアンソニーが近づいてきたので、私は彼に席を譲り、カウンターのヴィンスの隣に移動した。
「今夜はすごい美人を口説いてたじゃない」
私は声をかけた。ちょうど一杯目を飲み終わったところでパトリックに向かって二杯目を注文していたヴィンスは、フゥ~ンと長く酒臭い息を漏らした。
【長編小説】 異端児ヴィンス 6
その時期は、まさに焦燥が私の人生を突き動かしていた。まるで、私という容れ物を飛び出し、焦燥そのものが主体となって前へ前へ進もうとしているかのようだった。何かに追われるように私は走り、何かから隠れようとするかのように、突然息をひそめた。誰かに自分のプライベートな領域に侵入してこられるような感じがいつもしていて、かと言って助けを呼ぶこともできないのだ。もし助けを呼ぶにしても、相手はいつも、「どうして
もっとみる【長編小説】 異端児ヴィンス 8
――「どうして? 逃避することが悪いことだとは思わないけど……。誰だって根は怠惰だし、時には辛い現実から目を背けて休憩することも必要だよ。それに……」
「やめて。わかってる。そんなこと、わかりきってるじゃないの、レイ。あなたは独創的な人だと思っていたから、何か斬新なことを言ってくれるんじゃないかと期待していたの。なのにあなたが、そんなありふれた、オウムみたいに誰もが口を揃えて言ってるような意見を
【長編小説】 異端児ヴィンス 9
その生粋のケベコワーズの少女は、モントリオール近郊に住んでいた。モントリオール近郊といっても、正確にどこだかは知らない。ただ彼女が市内のダウンタウンで週に一回行われる日本語とフランス語のエクスチェンジ会に頻繁に参加していたことと、家を訪ねた時に車で走った距離感からして、そう遠くはない、モントリオール市周辺に位置するいずれかの町だろうと推測できるのみだった。
モントリオールの周囲には、ラヴァル、
【長編小説】 異端児ヴィンス 10
危機はある日突然やってきた。
その朝目覚めた時、私はもはやテオに対しては、語るべきことが何も残っていないことに気づいた。
その日は平日で、彼はいつものように先に起きてひとりでピーナッツ・バタートーストとコーヒーの朝食を済ませ、クリーニングから帰って来たてのスーツに袖を通してネクタイを結んでいた。
私はノロノロとした動作で寝室から出ていった。いつものように、彼におはようを言うために。
「Bo
【長編小説】 異端児ヴィンス 13 最終回
とうとうモントリオールにいる間、テオから電話がかかってくることはなく、また、偶然にどこかでヴィンスを見かけるということも起こらなかった。日記を始めてから一年四ヶ月ののち、私は居を移す決心を固めた。例の日本人、自分と同じルーツを持つ日本生まれの日本育ちの御仁が、もし興味があれば、僕の故郷を訪ねてみないかと誘ってくれたのだった。その頃になると、私もそろそろ生活を変えようという気になっていたし、それに
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