見出し画像

薔薇の邂逅  シロクマ文芸部

薔薇の邂逅   【749字】

春の夢はミジンコに食われて、もうバクにやる分も残っちゃいない。
あの桜を見上げた夢のような春の日は、もう遠い山の彼方に旅立ってしまったんだ。
初夏の風が吹き始めた隣の庭から木香薔薇のかすかな香りが漂ってくる。
 
いつもの時間のいつもの散歩はいつもと何も変わらない。
途中に、たまに水鳥が羽根を休める短い橋が架かっている。ふと上流に目をやると赤い薔薇が見えた。何かの見間違いかと見返しても紛れもない赤い薔薇だ。手近にあった棒でそれを岸に寄せ、取り上げた。
見事な薔薇。大輪の赤は光を放っているようだ。緑の葉も生き生きしている。きっと上流にお屋敷でもあるのだろう。
 
なんとなく不釣り合いな持ち物だと思いつつ、私はそれを携えて家路に就いた。
もうすぐ自宅というところで、向こうから、まだ名前も知らない女性が歩いてきた。
いつものように「こんちは」と声をかけると、向こうからも「こんにちは」と返ってきた。女性は私の顔と薔薇を交互に見て言った。「綺麗な薔薇ですね」
私は躊躇なく「どうぞ」と彼女に差し出した。すると彼女の顔はみるみる綻んで、薔薇のように輝いた。
 

それから数ヶ月のお付き合いを経て、今では私の妻となった。
相変わらず在宅で働く私は、結婚してからも生活は変わらない。
いつものように散歩に出かけると、花屋に美しい赤い薔薇を見つけて、思わず購入した。手に取ると、妻の笑顔が透けて見えた。
 
以前の薔薇の花をぎこちなく抱えた自分を思い出すと頬が歪む。
ちょうど短い橋に差し掛かったところで薔薇の棘が手のひらを刺し、川に薔薇を落としてしまった。
それをまた取ろうと思えば取れただろう。でもそうはしなかった。
 
流れていく薔薇を目で追うと、次の橋に薔薇を見つけた男がいた。
男は棒でそれを岸に手繰り寄せ、取り上げた。
       了

小牧部長さま
よろしくお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?