Revenge

ここはどこだろうか。穏やかな風が吹いている。空気にはほんのり磯の香りがある。ここは草原だ。ただ広い草原。草原の終端は海になっていて、まるで急に世界が途切れてしまったみたいにストンと崖になっている。むき出しになった岩肌は白く、この崖を特徴的なものにしている。周りには木はほとんど生えておらず、伸びっぱなしの草で埋め尽くされているが、いくらかは土がむき出しになっていて、自然の気まぐれを感じさせる。地面は起伏を帯びており、時折大きく隆起しているところがある。

そこに、老人が一人立っている。ちょうど崖の中心あたり。呆然というよりは確固たる意思をもってその場に立っているように見える。老人は背は高くて肩幅が広く、以前の体格の良さを感じさせる。痩せており、額は後退して、髪は透けるほど色素が抜けている。着古された白いシャツに茶色のパンツを履いた姿は、まるで病院から抜け出してきたようだ。彼は老人特有の力が抜けたような、疲れ切った格好で立っている。

老人はじっと目を閉じている。寝ているわけではない。物思いにふけっている。どうやら自分の今までの人生や生き方について、思いを巡らせているようだ。老人の人生は長く長く、おそろしく時間を費やした人生だった。生きることを歩み始めた時がどのようなものだったのか。老人は思い出すことができない。二十歳の時に自分が何をしていたのかも思い出すことができない。自分を産んでくれた親がどんな顔をしていたかもうっすらしか思い出せない。老人はとてもとても長く生きたのだ。

それでも、妻の顔を思い出すことはできる。息子の顔を思い出すことはできる。かつては妻と息子が生きる糧だったのだ。彼はいつからか家族のために生きようと決心をした。自分の人生のいくばくかを家族のために費やすことにしたのだ。彼はそれに意義を感じていたし、誇らしくも思っていた。そして、その考えは彼の日々に彩りを与えたのだ。家族は彼にとって、かけがえのない時間を与えてくれた。その日々は、美しく輝かしい。彼はその時間を鮮明に思い出すことができる。まるでビデオカメラで撮った映像のように色彩や光や音声が、頭の中で克明に再現される。

しかし、その日々も遠い昔の話だ。老人は、あまりにも長かった一人の時間を苦々しく思う。そして、また、過去何度も思い返してきた家族の時間をまた思い出して、目にうっすらと涙を浮かべる。そう、彼はその日々を失ってしまったのだ。それは、まさに晴天の霹靂だった。老人は、この日々が永遠に続くと思っていた。いや、少なくとも自分が生きている間に失うとは思ってもいなかった。しかも、まさかこのような形で失うとは思ってもいなかったのだ。老人は失った時に感じた、大きな落胆と喪失を今でもありありと思い出すことができる。老人にとって、それは未だに癒えることのない、大きな大きな心の傷だ。彼はそれを彼自身の人生の錘として、背負って生きていくことを決めた。

彼はこの場所をよく知っている。老人にとって、この場所はとても意味のある場所だ。彼は、毎年この時期になるとここへ訪れる。この時期この場所は、気候はとても穏やかで、雨が降ることは稀だ。晴れた日が続くことが多い。海辺からやってくる風が爽やかで心地がよく、風は時折強く吹くこともあるが、それでも寒いと感じることはない。

彼はこの場所に神聖さを感じている。あるいは、彼自身が神聖さを持ち込んだのかもしれない。彼は毎年ここに花束を持ってくる。この場所には不釣り合いな色とりどりの花束だ。彼はその花束をまるで種でも蒔くようにばらまく。その行為はまるで儀式のようだ。彼はその行為を通じて、その場所と対話をしているようだ。彼はこの行為を通じて、この場所が変わりなく存在することを確認しているようにも見える。

そして、今年も彼はこの場所に花束をもってやってきた。変わらずこの季節にやってきた。例年と違うのは、彼が花束のほかにアタッシュケースを持っていたことだ。彼はその儀式にまた違う何かを持ち込んできた。

時折吹く強い風を受け、老人の服がぱたぱたと音を立てていた。老人は何かを待っているように見えた。彼はようやくこの時がきたと考えている。あの日、家族を失った瞬間から、この時を彼はずっと待っていたのだ。あれから何年も経った。彼は、見るからに歳を取り、老人になった。白髪だらけで、歩くのもおぼつかないほどの年齢だ。しかし、それだけの年月が必要だったのだ。彼は、その瞬間から解放されるために、この年月を一人で過ごしていたのだ。そして、着々と準備を進めていた。そしてついにその時がきたのだ。

老人はおもむろにしゃがみこみ、アタッシュケースを地面に置いた。そして、アタッシュケースを開いた。そこには、いくつかの筒上の形をしたものが収められていた。彼はその中からいくつかを取り出し、ゆっくりと立ち上がる。その筒上のものには導線が付いている。どうやら、それは土木工事に使われるダイナマイトのようだ。老人はそのダイナマイトをおもむろに手に取り、まるで重さを計るかのように何度か手のひらで持ち直していた。老人のその手つきからは、そのダイナマイトが何かの結晶のようなものであることをうかがわせる。一人で過ごした何年間、彼が思い巡らせたものそのもののように見えた。老人はゆっくりと歩き始める。そして、ある地点まで行くと、空いている方の手で地面に小さな穴を掘った。それはちょうどダイナマイトが入るくらいの穴で、その穴にダイナマイトを入れると導線が土から出るように気をつけながら、まわりの土で埋めていった。

この作業が繰り返し何度か行われ、彼が持ってきていたダイナマイトは一通り土に埋められてた。おそらくその数は数十個。等間隔に配置されていて、海から崖の上を伝って海へつながる点線のように見えた。老人は慣れた手つきでその作業をこなしたが、顔には疲労の跡がうかがえた。彼のような高齢ではこの作業は重労働だろう。額からはじんわりと汗が吹き出ていた。それでも彼は休まず、作業を続けた。

次は、制御器をダイナマイトへ接続する作業だった。彼は、制御器からでているコードをダイナマイトの線に丹念につなげていった。制御器からダイナマイトまではそれなりの距離があり、またダイナマイトの数も多かったので、この作業にはかなりの時間が必要だった。彼は時折立ち止まって、休憩をしながら、それでも諦めずにその作業を続けた。

彼の家族は、彼が見ている前でその存在を消した。彼は、その光景を思い出すことができる。妻と息子はこの場所、この草原で存在を消したのだ。彼はその瞬間を見ていることしかできなかった。妻と息子の泣きじゃくる顔、助けを懇願する声を克明に思い出すことができる。できることなら、彼女たちを救いたかった。なんとかして、その場所から解放したかった。でも、それは叶わなかった。彼は黙ってみているしかできなかった。

彼はその瞬間から一人になった。彼の人生の色彩ががらっと変わってしまった。すべての色がモノクロになったような気がした。空も草も海も。彼は心にできた大きな傷をどうにか受け止めようとした。でも、それはうまくいかなかった。彼はその傷から目をはなすことができなかった。何度も何度もあの時の光景を思い出した。妻と息子の顔が頭から離れなかった。彼はそのたびに狂ったように泣き叫んだ。そうやって彼はその傷を癒そうとしたのだ。それでも、現実はその場から消えることはなかったし、彼の傷を変わらず広げていった。彼はその傷と生きていくしかなかった。

どれくらい時間がたったのか。しかし、ようやく太陽が老人の真上まで登ってきた。まだ、昼過ぎだ。老人はまたその場に立ち尽くしていた。鳶がゆっくりと彼の上空を旋回していた。老人は上を向いた。やっとここまできた。何年もかかってやっとここまできたのだ。老人はそう思った。私は長い間一人で生きることになった。それでも生きてこれたのは、この目的があったからだ。老人は待ち焦がれたこの状況に無情の喜びを感じると同時に、ついに達成してしまったという無念感に包まれていた。

老人はゆっくりと歩き始めた。そして、ダイナマイトの制御器のところまでやってきた。制御器は、ダイナマイトと海に挟まれるようにセットされていた。彼は、そこまで行くと、海を背にして立った。そして、静かに時間がくるのを待った。

彼の脳裏には、様々な光景が浮かんでは消えた。それはまさに走馬灯のようで、彼の人生のすべてを表現していた。老人はその走馬灯を噛みしめるようにじっと思い浮かべていた。彼の人生は、あの時から大きくゆがんでしまった。彼は、自分でもまっとうな人生を歩んでいたと思っていたのだ。それなりの収入と妻と息子。それなりの暮らし。深浅はあるいにせよ、足りないものはないように見えた。しかし、あの時、彼の人生の骨格ともいうべきものが奪われてしまった。それは、家族ことだけではない。彼の人間としての尊厳ともいうべきものも一緒に奪われてしまったのだ。泣き叫ぶ妻と息子をみた瞬間、彼の中の大きな心の玉のようなものが割れてしまった。彼自身を映し出していた、彼自身が自分の人間性を確認するために見つめていた透明な心の玉。それが割れてしまったのだ。それは彼の精神の根源だった。彼は自分を見失ったと同時に、自分を生み出した根っ子のようなものも失ってしまった。

彼は、もう一度それを取り戻すことが必要だった。しかし、一度壊れてしまったものは元どおりにはならなかった。彼の心の玉は相変わらず粉々のままで、その破片は彼の心に突き刺さったままだった。だから、彼は違うもので同じ役目をもつ玉を作り出す必要があった。もうそれはわかりきったことだった。彼は復讐を糧にその玉を作り出したのだ。彼は復讐心を胸において生きていくことに決めた。そうでもしないと自ら命を絶ってしまうからというのもあったが、彼はその復讐心を自らのアイデンティティに掲げ、生きるすべての時間をそのために費やすことに決めた。そうやって生きていくことで彼の人生はようやく前へ進む事ができたし、たとえ一人であっても生きていくことができる気がした。

老人は、ゆっくりと腕時計をみた。時間は午後三時をちょっと回ったあたりだった。そろそろだった。あの事件が起きた時間は三時二十分だ。そして、妻と息子が消滅した時間もその時間だ。あれからちょうど三十年だ。三十年前の三時二十分。

彼は、すぐ近くに置いてあった花束から一本一本、花を抜き取り、空へ撒いていった。ようやくその時が来たのだ。ようやく。そして、彼自身も役目を終える時だ。なだらかな、そしてほんのり寒気のする風が、彼の頬を撫でていった。じっと大地をみた。彼には、いまだあの事件の匂いが感じ取れる。そして、妻と息子の顔が思い浮かぶ。随分年をとった。彼はゆっくりと口をひらいて微笑んだ。なんて人生だ。馬鹿みたいだ。そう彼はつぶやいた。彼の目から涙が頬をつたっていった。それでも。と彼はひときわ大きな声をあげる。そして、彼は目を閉じた。

もう時間だ。

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