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今、私の目の前に、両手で顔を押さえ、身悶えしている男がいる。体を小刻みに震わせ、口からは壊れた機械みたいに規則的な呻き声が漏れている。この男が何者なのか、私は知らない。私がこの男と顔を合わせたのがほんの数分前のことだから、当たり前といえば当たり前のことだ。もちろん、この男の名前や年齢、職業も知る由もない。ただ、この男がなぜここにいるのかを私は知っている。いや、知っているつもりだ。そして、彼が今身悶えしている理由も理解している。

その男の隣には私の妻がいる。私の愛おしい妻だ。私たちは結婚してまだ二年しか経っていない。まだ新婚と言っても差し支えがないだろう。

「ああ…。あなた、なんていう事を…。」

彼女は、床に座り込み、服は乱れ、スカートが荒々しくめくれて細く白い太ももが露出している。髪はぐしゃぐしゃにもつれ、顔は涙で光って見える。彼女は明らかに狼狽している。体は震え、声にもならない声が唇から漏れている。しかし、彼女はこの事態を正しく認識しているようだ。彼女はこの事態をまるで予期せぬ災害と同じように、自分には避け難い試練と考えている。原因なんて考えても仕方がない。この試練を耐えるしかない。そんな風に考えているようだ。そして、彼女は、自分自身を被害者だと考えているようにみえる。

被害者は誰か。そんなことはどうでもよい。それよりも今、この事態に決着をつける必要がある。そうだ。この男が悶えているのは、私がこの男を殴ったからだ。思いっきり、力いっぱいに殴りつけてやった。この男は、私の家のベッドに座っていた。私が部屋へ入ると慌てふためいて、私の腕を掴もうとした。私は自分なりにその場の状況を解釈した。そして、何も言わず、この男を渾身の力で殴った。そして、私は今、妻の前に立っている。腰が抜けたように妻はふらふらと床に座り込んで、私のことを見上げている。私は、妻に何を言おうか考えている。彼女を糾弾するのか、それとも彼女をいたわって優しく声をかけるのか。しかし、私は自分が考えている以上に興奮している。胸は激しく動悸がして、息が乱れている。目は見開いていて、体が大きく震えている。私は私を抑えることができないようだ。私は私自身をコントロールできない。

やがて、私は妻の腕をとり、嫌がる彼女を無理やり立たせる。私は、大きく息を吸い、右手を強く握りこむ。段々と私の視界は狭まり、頭がぼんやりとしてくる。私の興奮は最高潮になり、私はついに一線を越えてしまうことを理解する。次第にあたりは色彩を欠いて、すべてが白黒にみえる。モノクロームだ。私は私自身をコントロールできない。私の精神が、肉体が、感覚が、私のものではなくなってしまったように感じる。私の意識は遠のいて、私の肉体をまるで抜け殻のように感じ、私は私を認識しながらも私自身という感覚を感じることができなくなっている。私は、これ以上進むことは間違いだと感じている。それでも、私は私自身をコントロールできない。どうしても、コントロールできない。

私は、いつの間にか床に倒れている。胸には包丁が突き刺さっていて、血がだらだらと垂れている。私は何がおきたのか理解できない。男は座り込み、血まみれになった手を震わしている。妻は、私に覆いかぶさるようにして、私の肩をゆすっている。妻は無傷のようだ。私はどうやら、自分自身をコントロールできたようだ。愛おしい妻を、私自身の手から守ることができたようだ。それでいい。私がどうなろうと構わない。私は一線を越えなかったのだ。だから、私はどうなろうと構わない。

妻が男の方へ寄り添う。二人は何かを話している。私の血は止まらない。だんだんと意識が遠のいていく。二人は何を話しているのか。妻よ、私のそばへいてくれ。私のために救急車を呼んでくれ。二人は手をつなぎ、立ち上がる。何をしているのだ。私は胸から血を流している。早くしてくれ。二人は、小さな声で何かをしゃべっている。聞こえない。全く聞こえない。そして、ドアをあけて二人は出て行く。私は一人部屋に取り残されている。私は何があったのか理解できていない。

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