memory_reprise

「起きろ。おい、起きろ。」

警官が男の頬を叩いている。

「こんなところで寝るな。起きろ。おい。」

男は高架下のちょうどインクの垂れたタギングのすぐ下に座り込んでいる。足は大きく前に放りだされ、今にも右肩が地面に着きそうだ。男はゆっくりと覚醒するように目を開ける。大きく口を開けたまま警官の方を見る。

「お前何してるんだ。もうそろそろ朝になるぞ。早くおきろ。」

警官が左腕を掴んで、男を無理やり立たせようとする。男はまるで動かない。それでも警官は両腕を持ち上げて、無理やり男を立たせる。男は仕方なさそうに、壁になんとかもたれながら立ち上がる。警官は男の左肩を強く叩いて歩くように促す。

「とりあえず駅の方へ行け。しばらくすれば電車が動きだすから。」

男は渋々と駅の方へ歩き出す。だが、男はまともに歩けない。ゆっくりと一歩一歩足を地面に叩きつけるように歩いていく。男は歩きながらここはどこだったか思い出そうとする。駅ってこっちでいいのか。ちょうどあったガードレールを手すり代わりによぼよぼと歩く。次第に男の頭は覚醒をしていき、意識がはっきりしてくる。歩きも少しずつ、いつもの調子を取り戻していく。男は周囲を見渡す。ここはどこなのか。やはりいくら考えても思い出せない。そもそも俺は今まで何をやっていたのだ。なぜあんなところで寝てたのか。男はまったく思い出せない。まるでここに生まれおちたような気分だ。初めてこの世界を体験しているようだ。

男は自分が何者かも思い出せないことに気づく。名前も出身地も年齢も。どこに住んでいるのか?職業は?結婚しているのか?子供がいるのか?何もかも思い出せない。まさか。俺が記憶喪失だと。現実にあるわけがない。そんなに簡単に全ての記憶がなくなるわけがない。

男の手はひどく震えている。震えを止めることができない。俺はなぜここにいるんだ!答えろ!男は一人叫ぶ。そんなばかな。ありえない。激しく動悸がする。男はうまく息ができない。

しばらくして男はまた歩き出す。ひとまず自分が何者なのか、その糸口を探さないといけない。男は大きく息を吸い、落ち着きを取り戻そうとする。ポケットに手を入れてみる。そこには一つの鍵束と残りの少なくなったタバコと百円ライターがある。ジーンズのポケットにも手を入れてみる。ちょっとした小銭と、後ろのポケットには薄っぺらい財布が入っている。財布をあけてみる。そこには一万円札が十五枚と白いカードが一枚入っている。白いカードにはひとこと”memories”と書いてある。裏には何も書いていない。

「くそっ!」男は声に出す。

男は財布をしまうと、今度は思い立ったように近くにある店に駆け込む。少なくとも店に入ればここがどこだかわかるはずだ。男はそう考える。そこは小さなスナックでまだ明かりがついていた。しかし、入っているみると思った以上に薄暗く、店内には客はほとんどいなかった。カウンターには一人、化粧の濃い中年の女がタバコを吸いながら座っていた。

「教えてくれ!ここはどこなんだ!」男がカウンターにも乗り出して叫ぶ。

「お前は知りたいことはそんなことなのかい。」

「なんでもいい。今、この場所の情報を教えてくれ。」

「ここは日本、東京、杉並。そっちに行ったら高円寺の駅だ。」

「高円寺?」

居場所がわかったが、それがわかったところで自分はなぜ高円寺にいるのかがわからない。男は店を出る。

次の店に入る。今度は小さなコンビニだ。そこにある新聞を手にとって見てみる。十二月三十一日と書いてある。今日は大晦日なのだ。逃げるように店を出る。

男の頭に膜を張ったような記憶の影が生まれ始める。頭がずきずきと痛む。何かがおぼろげに姿をあらわそうとするが、なかなか形にはならない。男はまたゆっくりと駅へ向かって歩いていく。俺はこれからどうすればいいのか。どこへ帰ればいいのか。俺の家はどこにあるのか。とりあえず駅へと向かうが駅へ行って意味があるのかわからない。

前から一人の女性が歩いてくる。そして、男の目の前まで来ると男に声をかけてきた。

「どうしたの?」

「あ…。うん。」男は何て答えていいのかわからない。

「記憶のことを考えているの?」

男は核心を突かれて驚く。

「そうだ。俺は自分が何者なのかわからない。」

「ふふ。そんなこと気にする必要ないよ。だってあなたはあなたでしょ。」

「違う。俺は帰るところもわからないんだ。どうしていいのかわからないんだ。」

「だったら私と一緒に行こう。私がいろんなところへ連れってあげる。」

「お前は誰なんだ?」

女は男の腕をとって、駅の方へ引っ張っていく。男は女の強引さに驚きながらも、行くべき場所を女が教えてくれるかもしれないという期待からか、素直についていくことにする。男は女に切符を買ってやり、駅の構内に入る。始発電車はもうしばらくかかりそうだ。二人はベンチに座ることにする。女は男の腕に抱きつくようにくっついている。二人は何も話さずじっとしている。

男は思い出したように財布を取り出して、白いカードを取り出す。”memories”。一体何のことなのか。男はそのカードを見つめている。女はそのカードを取り上げる。

「こんなものいらないよ。捨てちゃいないよ。」

すぐに男はそれを取り戻す。

「これは俺にとって重要なもののような気がするんだ。捨てるわけにはいかない。」

男はそのカードを胸のポケットに入れる。そして、大事そうに胸に手を当てる。男は直感的にそうする。意味はわからない。それでも、このカードは男にとっての全てで、だから男はそのカードを体で感じようとした。男は次第にゆっくりと目を閉じる。

「だめ!すぐにやめて!」

女は男を揺すってなんとか手を胸から引き離そうとする。それでも男はやめようとしない。男はカードがほんのりと温かみを持っているように感じる。男はしっかりと目を閉じて、その温もりの感じ取ろうとする。次第に男の意識は朦朧としてくる。男はぼんやりとして意識の中で、しかしぼやけていたおぼろげな何かが輪郭を持ち始めていることに気づく。頭の中の様々な景色のピントがゆっくりと定まっていくように感じる。そして、次第に定まっていくピントの中に一人の人の顔が浮かんでくる。ゆっくりとゆっくりと、次第にその顔ははっきりとしてくる。

「よかった…。」

その顔から声が出る。その顔は女性で、目からは涙が溢れているが表情は笑顔だ。男はすぐに、はっきりとその顔を理解する。ああ。この顔は。この女は俺の妻だ。大事な大事な俺の妻だ。男ははっきりと理解する。そして、妻の手が胸に、男の胸に当たっているのを理解する。

「もう起きないかと思ったよ…。心配した。」

「ごめん。」

男は今自分がどこにいるのか理解する。男は病院にいて、ベッドの上に寝ている。男は自分の身に起きたことを理解する。でも、もうそんなことはいいのだ。妻を思い出すことができた。その顔を見て、いろいろな思い出を思い起こすことができた。それでいいのだ。

「ありがとう。」男はそうつぶやいた。

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