monster

彼女は運転席に座ったまま、しばらく動かなかった。車で駅まで来たというのにお酒を飲んでしまったから酔いを覚ましたいというのもあったが、それよりも今日確定してしまった事実に、彼女自身まだ気持ちの整理がついておらず、落ち着く時間が欲しかったというのが大きかった。彼女は今日の出来事を思い浮かべる。後悔はしていなかった。いずれははっきりすることであったし、その時間がただ早まっただけだからだ。それでも、その事実が彼女に与えたインパクトは思っていた以上だった。彼女が、彼女自身で雇った興信所の担当者から見せられた写真には、二人の男女が写っていた。男の方はうつむきがちに、ポケットに手を入れながら下を向いて歩いている。コートの襟を立てて、人の目線を意識しているようにみえる。女は長い髪を垂らし、少し惚けた顔をして前をしっかりと見据えている。男の右腕に彼女自身の腕を巻きつけ、男を引っ張るように歩いている。まるで、週刊誌みたいだなと彼女は思った。

「旦那様かと思いますが、念のため確認お願いします。」

興信所の担当者の男が嫌味ったらしく訪ねてくる。答えるまでもない。男が着ているコートは彼女がデパートで買ってきたものだ。男が履いている靴は彼女が先週磨いたばかりのものだ。彼女はいつからだろうと思う。夫の帰りが遅いことの意味を考えるようになったのは。彼女が眠っている間にそっと音を立てないように寝室に入ってくる夫に嫌悪感を持つようになったのは。

もうわかっていたことだったのに、なぜこんなことをしたのか。今になって彼女はその理由を考え込む。別にいい条件で離婚をしたいわけではない。大した稼ぎのない夫からむしり取ったところでたかが知れている。ただ、なんとなくその想定を確実なものにしたかっただけなのだ。彼女はそう考える。おそらく私は真実を知りたかっただけでその思いに理由などない。いや、それが答えではない。今はそれしか考えられないだけだ。

珍しく飲んだお酒のせいか、彼女の体はあまり寒さを感じない。車のエンジンもつけず、じっと座っている。駐車場には、こんな時間なのに案外車がとまっているなと彼女は思った。郊外にあるわりに随分と大規模な立体駐車場で、比較的空いていることもあり、彼女はいつもこの駐車場に車をとめる。時間は夜中の十二時過ぎ。もう日付は変わっている。帰るころには一時を過ぎるだろう。彼女がこんなに帰宅が遅くなることは滅多にないから夫は訝しがるはずだ。夫はどんなに遅くても一時までには帰ってくる。そろそろ家についているかもしれない。でも、もうどうでもいいことだ。もう。

ふと顔をあげると右側からゆっくりと黒い物体が移動してきていた。その物体はとてつもなく大きく、そして黒かった。通路の天井につきそうな高さがあり、車二台が十分に行き交いできるほどの幅がある通路いっぱいを埋めるくらいの大きさだった。その物体は、動物のようにも煙のようにもみえ、ゆっくりとゆっくりと音もなく緩やかに移動していた。

彼女はまた来たかと思う。最近、彼女はよくこの黒い物体を見る。家にいてソファで休んでいる時、車を運転している時、買い物に行っている時、どの場所であってもこの黒い物体は姿を現した。特に出現に規則やタイミングがあるわけではない。何時何分に見たとか、特定の動きをすることで見たとか、そういったことはない。ただ、彼女の気持ちが辛く暗い淵にいる時に見ることが多かったように感じた。まるで、彼女のストレスが具現化して現れているようで、その大きさもストレスと比例しているように見えた。「モンスターだ。」彼女はその黒い物体をモンスターと呼んだ。自分の中にいるモンスター。モンスターは彼女に何かをするわけではない。ただ、彼女の近くを漂っているだけだ。それでも、なんとなく彼女にはモンスターが何かを伝えるようとしているように思える。何かメッセージみたいなものを。

今日もまた、モンスターはじっと彼女の目の前で漂っていた。今日のモンスターは今までのものに比べてひときわ大きい。やはりストレスに比例するように思える。そうするうちに、モンスターはゆらゆらと彼女の車へ近づいてきた。その姿はまるで巨大な熊のようで、彼女は少し恐怖感を感じる。そして、モンスターは車まで近づくと、そのまま車に覆いかぶさるように倒れこんできた。突然のことに彼女は小さく声をあげる。車は完全にモンスターに包み込まれ、彼女の視界は真っ暗になった。彼女は何が起きたのか理解できない。今まで彼女が見てきたモンスターとは明らかに違う動きだ。今までのモンスターは彼女に危害を加えるようなことはしなかったのだ。彼女は真っ暗になった車の中で呆然としていた。どうしたらいいのかわからない。そのうちに黒い煙が車の隙間から湧いてくる。モンスターが車の中に流れ込んできたのだ。彼女はもはやパニック状態で手でなんとか隙間を埋めようとするがまったく効果がない。彼女は泣き叫び、助けを求める。だが、ついに車の中は完全に真っ暗になり、彼女自身もモンスターに飲み込まれてしまう。動けない。まったく彼女は動けなくなってしまう。声を出して助けを求めようとするも声が出ない。意識が次第に遠のいていく。泣き叫びたいがそれさえもできない。もうだめなの。どうしたらいいの。彼女は心の中で嘆く。何が起きてしまったのかしら。そして、私はこのままどうなってしまうのかしら。不安で心がいっぱいになる。本当になんでこんなことになったのか。彼女はパニックになる。

「大丈夫ですか?」

窓を叩く音が聞こえる。彼女が窓の外を見ると警備員が立っていた。「大丈夫ですか?」もう一度声がする。彼女はうなずいて問題ないと意思表示をする。警備員はしばらく様子をみるように彼女のことを見つめていたが、彼女の目がしっかりしてくるのを見ると静かにその場からいなくなった。気を失っていたようだ。あれから何時間経ったのか。夜はもう明け始めていて、太陽が徐々に姿を現していた。彼女はゆっくりと体を動かしてみる。体は硬直していて、ぎこちない感じがしたが、それでも動かすことはできた。あれは何だったのか。私は助かったのか。彼女は昨晩のことを思い出しながらも、車のエンジンをかける。そうだ、もう帰らないと。帰って夫のために朝食を作らないといけない。まだ体の節々が痛む気がする。それでも彼女はなんとか体を動かし、車をゆっくりとスタートさせる。そして、駐車場を出て、帰路についた。

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