glimmer

私がその光を見るようになったのは、妻が亡くなって半年が経った頃だった。妻は末期の乳ガンだった。一年に一度、定期的に健康診断をしていたのにもかかわらず、急に胸のしこりが気になるからと病院に行った時には、すでにステージIIIの末期ガンだった。彼女はその時まだ三十五歳で、平均寿命の半分も生きていない。イラストレーターとして事務所から独立して、ようやく一人で仕事が取れるようになってきた矢先だった。彼女からそのことを告げられた時、私は何を思ったのだろう。少なくとも彼女をその悲劇から救ってあげたいとは思わなかったと思う。それは叶わぬことだからだ。私にできることなんて限られている。医者でもなんでもない、私のような一会社員に彼女を救うことなどできやしない。そんなことは痛いほどわかってる。だから、私は彼女のそばにいて、彼女のことを見守ってあげることしかできないと思ったはずだ。彼女の手を握り、彼女の心の支えになれればと。そして、私は、最後までそれを実行したと思っている。

彼女が亡くなって、私の生活は変わったのだろうか。おそらく何も変わっていないだろう。私は、普段通り、朝七時に目を覚まし、髭を剃り、朝食を食べ、会社へ出勤をする。妻の介護のために一年間休職をしていたからか、私には大した仕事はない。いつも通りのそれなりの仕事をこなして、帰路へつく。家では、節約のために食事は自炊をして、軽く晩酌をして、眠りにつく。妻の生前との差は、自分で料理をするようになったくらいか。それ以外は、彼女がいようがいまいがさほどの差はなかった。

私は、妻を愛していたと思う。だから、結婚をしたのだし、五年近くその関係を続けたのだ。彼女が私のことをどう考えていたのかはわからない。それでも、夫婦という関係であったことは確かだ。彼女は自宅して仕事をしていたから、私が自宅に帰っても、顔をあわせることはほとんどなかった。食事は作り置きしてあり、それを温めて食べていた。だから、夫婦という関係性の確かさを確認することはできなかった。私の思いと彼女の思いが繋がっていたのかはわからなかった。それでも、私たちは社会的にも感情的にも夫婦だったと思う。

私は、彼女が亡くなった瞬間、涙を流すことができなかった。抗ガン剤の副作用ですっかり髪の毛が抜けきってしまった頭にニット帽を被った彼女は、まるで冬国で暮らす少年のように見え、年齢よりもかなり幼く見えた。私は彼女の手をとって、彼女のうすく虚ろな眼差しを見つめていた。彼女は、力なくぱくぱくと口を動かしていた。もしかしたら、最後の言葉を託そうとしていたのかもしれないが、声は形になって現れることはなく、やがて口も動きを止めてしまった。その時、私は彼女の声を想像した。そういえばしばらく彼女の声を聞いてなかった。最後に聞いたのはいつだっただろうか。入院してから彼女の声を聞いただろうか。彼女の柔らかく、暖かい声を。ふと気づくと彼女は目を閉じ、永遠の眠りについていた。なんということだ。私は、彼女の声を想像しながら、彼女の最後を看取ってしまったのだ。泣くどころではない。私は自分の不甲斐なさに嫌気がさした。

その光は、ある周波数にあった音に反応して発光しているように見えた。そう思ったのは、それが人の声だけではなく、物が落ちた時の音や楽器の音にも反応して見えるからだった。光はその音の位置を現すように、その後が鳴っている周りを囲むように円形にぼんやりと光ってみえた。まるで、それは天使の輪のようで、神々しく、清らかな光だった。音が鳴っている間だけ光り、また、音の大きさにともなって、明るさの強度もかわった。大きな音の時には明るく大きく見えたし、小さな音の時にはぼんやりと小さく見えた。

光はなぜ見えるのか。私なりに様々な可能性を考えてみたが、見当もつかなかった。楽器や雑音、人の声。そういった様々なものから光は見え続けた。私は次第にその光が苦痛に感じるようになった。光は重なってそれなりの光度を持つこともあった。そういった時には、私は前が見えなくなり、立ちくらみがして倒れそうになった。ひどい時には、頭痛がして吐き気がでる時もあった。私は自然と、音の出るところを避けるようになった。静かに家で本を読むことが増えるようになった。

そうして、しばらく経ったある日、どうしても外出をしなければいけない用事があり、休日に私は街へ出かけて行った。街は音の宝庫で、だから私が一番避けていた場所だった。仕方なく歩いていると、雑踏の中で、私は彼女を見つけた。彼女だ。そう私の妻、死んだはずの妻だ。私はそんなはずはないと思った。妻は半年前に私の目の前で息を引き取ったはずだ。それでも、彼女だった。あの姿は彼女だった。私は雑踏をかき分けて、彼女の姿を追いかけた。その日はよく晴れた休日で、人も多かった。私は必死に追いかけたが、彼女は雑踏の中で姿を消してしまった。私はうちひしがれた。生きているはずはない。ただの似ている人だけかもしれない。そんなことわかっているのに、私はそのことを受け入れられなかった。彼女がもし生きていたら、彼女の声をもう一度聞くことができたら。

「どうかしました?」

振り向くと一人の女性が私に声をかけてくれた。あまりの私の消沈ぶりに、心配して声をかけてくれたようだ。私は彼女の方を向く。すると彼女の口の周りが明るく光っている。私はやっと気づく。これは妻の声だ。妻の声と同じ周波数を持つ音が光っているのだ。私は、妻の声を求めるあまり、その声と似た音が光るという幻をみるようになったのだ。そうだったのか。そして、今、目の前にいる女性。顔は全く似ていない。妻とは別人だ。でも、彼女は妻の声を持っている。そうだ、この声だ。私が求めていた声はこの声だ。もっとしゃべってくれ。私に声をかけてくれ。私を救ってくれ。

「すいません。もっと声をきかせてくれますか?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?