grounded

どうやら僕は浮いているようだ。空中に一個体として浮遊している。地面からの高さは三十メートルくらい。そこそこの高さだ。何かにぶら下がったり、固定されているわけではない。僕はまるでその場のその瞬間に、自分とその周りの空気が固まってしまったように、ビタッとその場所にとどまっている。浮くという言葉から、ふわふわとその場をたゆたうようなイメージを持っていたがそうではないらしい。釘で打ち付けられたようにその場所にしっかりと固定されている。浮いているというよりも空中で固定されていると言った方が正しいかもしれない。

そして、どうやら僕は動くことができないようだ。指先は多少動くようだが、足を上げたり、体勢を入れ替えたりすることはできない。力を入れても体は応えてくれない。今、僕は上を向いている。地面を下と見ると、ちょうど僕は仰向けになっている状態で、頭が少しばかり低くなっている。ちょうど頭一つ分下に沈んでいるような形だ。僕の視界には、空が見えている。青々しい空はとても美しい。だが、頭が低くなっているので、どうしても頭に血がのぼる。体勢を入れ替えたいと思うが体は動いてくれない。寝返りをうつように横に倒そうと思うが、ぴくりとも動いてくれない。少しでも頭を高くしようと首を使って頭を立たせようとするがそれもできない。どうやら動くことができないらしい。

かれこれどれくらいの時間が経ったのだろう。時計を見ることもできないので正確な時間はわからない。三十分か一時間か。もしくはそれよりも時間が経っているかもしれない。時間という概念が今の自分には重要とは思えない。しかし、それでも目安として、経過した時間がわかればと思う。そして、後どれくらいこうしていなければいけないのかも。

僕は落下の途中だった。つまり、僕は跳躍をして高さ三十メートルで固定されたわけではなく、落下の最中に高さ三十メートルあたりで固定されたということだ。落下は完璧だった。僕は何ヶ月も前から落下のことばかり考えていた。用意周到に抜け目なく落下するにはどうしたらいいか。念密に計画をした。まずは落下をする場所探しだ。落下はなるだけ人目のつかないところがいい。かといって、まったく人がいないとなると後々困ることになる。三ヶ月間歩き回り理想の落下ポイントを見つけた。それは、最近駅前に建てられた高層マンションだった。そのマンションは、以前その場所にあった航空エンジンだか部品だかを開発していた企業の大きな工場を取り壊して作られたものだった。広大な土地に、何棟かのマンションが連なって建てられていた。それらのマンションはコの字に配置され、その真ん中には中庭があった。中庭には駐車場がある場所以外は、芝生が張り巡らされ簡単な広場になっていた。広場といっても大した広さはないので、人はほとんどそこにはいない。他の棟へ移動する時の通路として利用する人が稀に通るだけだ。しかもその中庭へは、オートロックなしで入ることができた。階段を囲む柵は鍵がかかっているが飛び越えられない高さではない。中庭なので外から見られることもなく、また人がまったく通らないわけではない。まさに自分が理想としていた場所だった。落下ポイントはこのマンションになった。

次は落下をする季節だ。これは断然春がいい。夏だと暑すぎるし、冬は寒すぎる。春は新緑が綺麗で、芝生も青々しく生えてきて、美しい。僕は静かに春になるのを待った。マンションを見つけたのが冬だったので、春になるまで三ヶ月近く待つ必要があった。普通に過ごせばあっという間だが、待つとなると長い期間だ。僕は辛抱強く待った。そして、ようやく四月になった。僕は待ちすぎて改めて気持ちを整える必要があった。そして、ある晴れた日に僕はマンションの上にあがる決意をした。

僕は、生きていくことの必要性について常に自問をしていた。生きていく価値について常に答えを求めていた。僕は生きていくことを追求しすぎていたのかもしれない。だからか、いつしか僕にとって生きていくことは窮屈なものになった。僕は僕自身を追い込み、締め上げて、逃げられないようにしていた。僕は僕自身の感情に囚われていたのかもしれない。そして、僕は自然と一人になった。あの時の僕には孤独が必要だったし、自分を守る防具という意味でも、孤独は重要なものだった。

しかし、孤独が完全性を帯びてきた時、僕の目の前は真っ暗になった。僕は依然として孤独を必要としたが、孤独は僕を必要とは考えていなかったようだ。孤独は絶対性をもった事象であり、僕にはその事象に立ち向かうだけの精神がなかった。次第に僕は、孤独に呑まれていった。まるで、ブラックホールが天体を飲み込むように、僕の存在は飲み込まれていった。

そして、僕は完全に孤独に飲み込まれてしまった。僕という人間性は孤独に包み込まれて見えなくなった。僕はあらためて孤独の怖さを痛感した。孤独は逃げ道のない洞窟のようなものだ。そして、僕はその洞窟をぐんぐん奥へ進んでしまったのだ。もう後戻りはできない。もうあの時へ帰ることができない。僕には、もう落下しか道が残されていなかった。落下をすることで、僕という存在を昇華することができると思った。昇華をすればすべてがリセットされる。そうすれば、僕という存在の孤独性は解消され、僕という存在があらためて定義される。母や父や友人の心の中で。だから、僕は落下をせざるをえなかった。そして、僕は用意周到に落下を計画した。

僕は、マンションの中庭を抜けて、屋上への非常階段がある柵の前に立った。よく晴れた日で、暖かくゆるやかな風の吹く午後だった。僕は、ゆっくりと柵を乗り越えて、階段を登り始めた。柵を乗り越える時に誰かに見られたと思った。でも、もうどうでもいいことだ。僕は、これから落下をし、この世界から昇華するだけだ。ただ、それだけだ。階段は鉄でできていて、足をかける度にガツッと大きな音がした。なんだか僕にはその音が、僕の重みを、生きているという重みを体現しているように思えた。僕は屋上へ着いた。屋上にも柵があったがこれも簡単に乗り越えられない高さではなかった。

とてもいい天気だった。空は本当に青くて、世界中の青さがここに集結したように思えた。僕はゆっくりを屋上を縁まで歩いて行った。遠くには、山々が見えた。反対にはスカイツリーらしきものもうっすら見えた。綺麗だなと思った。いよいよか。そう思った。僕は靴を脱がなかった。だって、落下が完了した時に裸足だったら格好悪い。僕は靴を履いたまま、縁にある段差の上にたった。真下には、さっきまでいた中庭が見えた。しばらくは中庭から目が離せなかった。

落下は思った以上の決意を僕に要求した。僕は、何度もやめようかと思った。今、一歩後ろに下がれば、すべてが元どおりになる。何もなかったことになる。でも、僕には落下しかなかった。僕はもう後戻りはできないのだ。そう何度も思い直した。怖い。どうしても怖い。怖い。でも、僕には落下しかないのだ。そう落下しか。もう落下への滑り台を降りているのだ。途中で抜けることはできない。歯が震えてガチガチと音を立ている。怖い。怖い。怖い。僕は屋上の縁に立ち、そっと目を閉じた。さて。いよいよだ。僕は風に吹き付けられるようにゆっくりと前に倒れていった。

そして、僕は浮いている。落下の決意をあざ笑うかのように、僕は固定をされている。しばらくは意味がわからなかった。僕の落下が何か見えない力によって、阻止をされている。そう思うと怒りと憤りで目の前が真っ暗になった。恥ずかしさもあった。誰かが見ているかもしれない。なんとかしてこの状況から脱出したいと思った。でも、しばらくすると自然と気持ちが和らいでいくのがわかった。これは宿命なのだ。まだ僕は死ぬタイミングじゃない。僕はまだ死ぬ必要はない。そう思うとなんだか気持ちが楽になった気がした。

どれくらい時間がたったのだろう。相変わらず僕の状況は変わらない。空は青々として、暖かい風が僕の体を包み込む。ふと思う。このままでもいいかもしれない。僕はこの場で、銅像みたいに同じ体勢のまま佇んでいる。そうやって、中庭やそこを通る人を見守るのだ。悪くない。僕はマンションの守り神だ。悪くない。

そういえば、よくよく考えるといつまで経っても空は青々している。あれから少なくとも何時間かは経ったはずだ。それなのに、太陽の位置が変わっていないように感じる。なんでだろう。よく見れば、見える景色が少し変わって見える。自分の高さをあらためて確認すると、少しだけ下がっている気がする。なんでだろう。もしかして。落下は継続されているのか。やはり僕は後戻りのできない場所へ来てしまったのだ。なんてくだらない人生だったのだろう。なんて救いのない人生だったのだろう。まったく笑えない話だ。

inspired by Pavement/Grounded


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