spacetime

貴子がそれを見つけたのは偶然だった。彼女は何も考えずにその空き地に車を停めたのだ。車を止めたのは泣くためだった。彼女は何か嫌なことがあると車を走らせて、誰もいない林道を登っていって、適当な空き地を見つけて車を停める。そして、人知れず泣き崩れるのだ。今日もいつもと同じように広樹と喧嘩した彼女は、林道を走らせてここまでやってきた。

貴子は生まれつき左腕が短い。右腕の半分くらいしかない。先天的な病によるもので、その傾向がはっきりわかったのは三歳の時だった。親は色々と手を尽くしてくれたようだが、結局成長をとめた左腕が伸びることはなかった。貴子は右利きだったから、生活で大きく困ることはなかった。小学校へ通うころになると、左腕で生活することにもなれて不自由することはほとんどなくなっていた。着替えも靴を履くのもトイレへ行くのも、右手と短い左手を器用に使って不自由なくこなすことができた。でも、やはり自分は人とは違うという大きな劣等感は消えることはなかったし、彼女を大きく苦しめた。

彼女のことを、腕のことを抜きにして想ってくれたのは広樹だけだと貴子は考えていた。広樹とは大学生の時に出会った。大きな劣等感に心を包み込まれてすっかり内気になっていた貴子は、サークルもせず、遊びもせずに図書館に篭っていた。そんな貴子に声かける、ましてやデートに誘うような男はいなかった。彼女の母親は「顔はいいのにね。どうして男にもてないのかしら。」と口癖のようによく話していたが、貴子自身はそうは思っていなかった。みんな、私の左手を怖がっている。だから、私のことを避けているんだ。そう思っていた。確かにそう思うのも仕方なかったのかもしれない。周りの皆はなるだけ貴子の左腕を見ないようにした。それは彼女を傷つけまいとして気を使ってのことかもしれないが、貴子にはそれが堪えた。たとえ短かろうと左腕は腕として機能しているし、生活の様々なシーンで利用している。確かにスポーツをしたり、重いものを持ったりすることはできない。それでも貴子にとっては他の人の腕と遜色ない、かけがいのない左腕だ。特別扱いをせずに普通にしてほしい。普通に私の左腕を見てほしい。そう思っていた。

広樹は、貴子と初対面のときに「左腕どうしたの?」と聞いた。いくらデリカシーのないと言われる広樹でも、さすがにその場の空気を感じて自分の発言に多少後悔をしたようだったが、その後も臆することなく貴子に話しかけてきた。貴子もはじめは彼の言動に嫌悪感を持っていたが、それが彼の素直で屈託のない性格のせいだと気付いてからは一気に興味を持つようになった。その後も広樹は、何かにつけて貴子に話しかけるようになった。彼女も悪い気はしなかった。そして、広樹は貴子をデートに誘った。貴子はそんな体験したことがなかったが、この人ならと承諾をした。それからはトントン拍子だった。デートを重ね、付き合うことになった。セックスをし、一緒に住むようになった。どこにでもいる恋人達と同じように、二人は仲を深めていった。そして、年月も立ち、いつしか彼女も結婚を意識するような年齢になっていた。彼女は自分を愛してくれるような人が彼以外に現れるとは思っていなかったから、彼女は彼との結婚を強く望むようになっていた。でも、彼はそうは思っていなかった。少なくとも彼女にはそう思えてしかたなかった。

貴子の見つけたそれは、空き地に鬱蒼と生えた雑草の手前に浮かんでいた。それは、はじめは通常であれば見逃してしまうような小さな黒い点だった。黒い点は周りの空気を吸い込んでいるように思え、それによって小さな風の渦のようなものができていた。貴子は、はじめは小さなつむじ風かと思ったが、次第に大きくなっていく黒い点をみて、明らかに違うものであると認識した。その大きくなった点は、周りにあった小石や枯葉などを吸い込み始めていた。貴子は、それが時空の歪みであると考えた。言うならば、地上にできたブラックホール。そして、周りのものを飲み込んでどんどんと大きくなるのだ。貴子は近づいて、その時空の歪みをまじまじと見つめた。大きさは十円玉くらい。大きくなるスピードはそれなりで、さっき見つけた時は一円玉くらいなので、このままのペースでいくと一時間後には私の顔くらいにはなっているだろう。貴子はその穴に向かって石を投げてみた。時空の歪みに投げ込まれた石は、すっぽりと飲み込まれてすぐに見えなくなった。この時空の歪みは、ブラックホールみたいになんでも吸い込んでくれるのだろうか。そして、吸い込まれたものは二度ともどることのできない異空間に飲み込まれてしまうのだろうか。貴子は、今日、広樹とした喧嘩のことを思い出していた。広樹は「その腕でウェディングドレスなんて着れるの?」と言った。私がどうしてもしたいと言った結婚式の話で口論になった時に。貴子は何も言えなかった。そして、大泣きしながら車を運転してここまできたのだ。腕なんてなくなってしまえばいいのに。この使えない左腕。貴子は、今それを真剣に考えていた。この時空の歪みに私の左腕を入れたらどうなるのだろうか。時空の歪みは私の左腕だけを異空間に飲み込んでくれるだろうか。そして、私の左腕を二度と取り戻すことのできない、誰もしらない場所に追いやってくれるだろうか。貴子はしばらくその黒い点を見つめていた。そして、自分の体が思っていた以上に緊張していたことに気づいた。私は何を考えているのだろうか。ゆっくりと溶けていく緊張の中で貴子はそう考えた。広樹のああいう開けっぴろげなところに私は惹かれたのではなかったのか。ああやってはっきりと言ってくれる広樹だから、私は結婚しようと思ったのだ。こんな左腕でも私にとっては、大事な大事な左腕だ。だから私にはいらない左腕なんてないんだ。貴子がそう思うと振り返って車に乗り込んだ。それでいい。それでいいんだ。そういうと貴子はエンジンをつけて、広樹のことをしばらく考えた。そして、ふとみた時空の歪みは多少小さくなったように感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?