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イノベーションは多様性。これからのマネジメント

娘が泣かされたらしい。

その一言だけで私の知能指数は大分と落ちる、というよりも堕ちる。あなたも娘、息子に置き換えるとわかると思うがーーもちろんそれは彼氏彼女でも構わない。知能指数の低下を感じると思います。

で、話の源流というか潮流は、どうも1人問題のある子がいるらしい。

私やあなたの時代でも、1人か2人くらいはクラスの中に"みんなと違う子"というのがいたのではないだろうか?

もちろんそれは見た目や身なりの話ではなく、話し方や行動行為の事。他人に迷惑になることや、簡単に言うと他者に嫌われるという行為がなんなのかわからない子。

それは確かにその子のせいでも無ければ親のせいでもありません。ですが私やあなたは自分の娘や息子、そして彼女彼氏という自分に近しい人物が迷惑をかけられると腹が立つ。それは人間らしい感情そのものですよね。

で、彼女の話に戻りますが、どうもその子が決めたことをせずに(劇の配役を突然辞めたらしい)他のことをしだしたので注意したら暴れ出したらしい。

まぁ暴れたと言っても暴力を振るったわけでもなく、大声で喚き出すというのが正しいらしい。

「で?先生はその子になんて言ったの?」

と、彼女に問いかけると彼女はさも普通のことのように、

「なにも。いつも大体注意はしてないよ。」

と、答えた。これを教育と呼ぶのか!ということは特に思わず、あぁやっぱりそうだよね。と思いました。

わざわざその子を突いて授業を遅らせるくらいなら、少々のことは目をつぶって授業を進めるのが合理的である。ということはあなたもわかるでしょう。

ダメなことはダメと注意するのがその子のためでしょう?という正論はごもっともなのですが、人間の世界はそれほどうまく出来ていません。

遠くの慈愛と近くの侮蔑

小学校の1クラスは平均20〜30人くらいですよね。それを先生1人で見るわけですから、オペレーションを回す観点で見れば違うことをする子を弾くというのが合理的です。

これは私もあなたもどこかでわかっています。

私もあなたもこれが、つまり彼女に起きたことが他人であれば「まぁ、先生だって大変なんだよね。そもそも時間も足りないし先生だって聖人君子では無いんだから。」と思います。

しかし、もしもほんとうにあなたに降り注ぐ、つまりあなたの近くで起こればあなたは、「人を教え、育てる人間がそんなことで許されるか!今度の授業参観で言ってやる!」と思うというのが普通です。

それは例えるなら、遠くの人に寄付や募金をしながら職場の所謂出来ない人に冷たく当たるのとほぼ同じようなことです。

私もあなたも遠くの(直接対面しないような外国の)人には慈しむ心、慈愛の精神が芽生えますが、近くのホームレスなどには侮蔑的にあたります。

無知と無明

ところで彼女の事例のような、他とは違う子というのはあなたの時代、子供の時はどうだったでしょうか?少し思い返してみてください。

昔、つまり私が子供の頃はどうだっただろう?と思い返したのですが、おそらく僕の時は、と思い返すとあまり記憶がございません。

ということは、幼い頃の自分はそういうことつまり、他とは違う子ども障害がある人というのを気にしていなかったということでしょう。

しかしながら、その気にしていなかったというのはそういう人が世の中にいるということを知らなかった自分がいた。ということなので、気を遣うということもしてなかったでしょうし、傷つけていたことだと思います。

それらを差し引いて考えると恐らく、多様性というものを意識していたことはなかったのでしょう。

おそらく私たちの時代というものは、単純明快に言うとダメな時代だったのでしょう。

先生も分け隔てというものをしたり、気遣いをしたりというところを見たことがない、見た覚えがないのです。

そして、そのような子は他の人と同じ扱い。クラスでごった煮になる。つまり嘲笑の対象になったり、いじめの対象になったりしていた。ということなのでしょう。

ということは、昭和や平成の時代つまり多様性が今ほど求められていなかった時代というのは、クラス、学校というものはもっと画一的であり、そのような障害がある児童というのは、他のクラスに押し込められている時代ということです。

そして、親が気づかずに普通のクラスに入れてしまうと、先ほど申し上げたように嘲笑の対象やいじめの対象になっていたということです。

つまり私の記憶にそのような子どもたちがいなかったということは、おそらく学校に来れなくなったか他の学級学校に移ったということなのでしょう。

笑と攻撃


子どもというものは恐ろしく純粋無垢なものです。

そのような人がいるという知識がないと、そのような人をいじめの対象にしたり、嘲笑の対象にしたりします。

人間の根本にある笑いというものは他者への攻撃です。

他者への攻撃がない場合というものはそもそも笑いではありません。

思い返してみればわかると思うのですが、悪意が0の笑いというものはこの世に存在しておりません。

例えば猿は毒を吐くときに笑顔のような顔を作ります。

それは人間も同じなのです。毒を吐くときに我々は笑顔になり、他人を攻撃するときに我々は笑いを起こすのです。

そんなことはなく、人を嘲笑の対象にせずとも笑いを取れる!という人は本当にいるのでしょうか?

全てを許す。みたいなお笑いがあると思いますが、それは他人を攻撃している、それで笑いを取っているという構図を逆にしているから私たちは笑うのです。

つまり今までしてきたお笑いというものを攻撃しているのとなんら変わりはないのです。

つまり私たちの笑いは攻撃によって、起こるのです。

だから障害のある児童を笑いの対象にしても良いのではないか?ということではございません。

日本人のOS


私たち日本人の文化には徳という文化があります。

それは日本人のアプリオリ(先天的)です。では徳とはいったいどのようなものなのでしょうか?

徳というものを簡単に言い表すと、いいことしたポイントと捉えられると思います。つまり他者に対して貢献したり、他者を助けたり、幇助したりすることを徳と我々は認識しています。

クモの糸のお話なんかが有名ですよね。

一匹のクモを潰さずに助けた男が、地獄に堕ちる間際にクモの糸に助けられるが、最後には自分でその雲の糸を断ち切ってしまうそして、地獄に落ちるというお話ですよね。

我々日本人にはこの徳という文化が物語にもあるように根付いています。

1匹の蜘蛛を助けた徳によって天国に行けるかもしれない状況(実際には落ちますが)が起こりうると信じているのです。

だからこそ弱きを助け強きをくじく。勧善懲悪のようなものが、私たち日本人にはすっと胸に入ってくるのではないでしょうか?

合理と不合理


しかし、その得というものは合理性とはかけ離れたものです。

つまり資本主義社会においては徳というものは
あってはならないとまでは言いませんが、合理的でない行動ということになります。

しかし、合理不合理を資本で考えるとそうなのかもしれませんが、資本で考えなければ例えば困った人にお金を渡すというのは私たちの心を救うこともあるのです。

私やあなたは否応なくとも資本主義、合理的であるものが良いという価値観を刷り込まれています。

ビジネスの上では再現性や合理性は不可欠なのだから当然です。

それも先生になるような人は学校の勉強をできた人たちです。なので合理性や再現性を追求する今の教育の最高到達点と言っても過言では無いでしょう。

しかしながらその合理性というものを教育に持ち込むと、一人一人と話し合う。よりも画一から逸れる子供に対しても同じを求めることが合理的で再現性があるものであり、良いものになります。

となると先生の評価も1人の個性を伸ばすより、平均点を伸ばす、つまりは画一的でないものを度外視することに焦点が当てられることになります。

画一的でないものを伸ばすことよりも、画一的なものでオペレーションをまわすようになるというのが評価に値するということです。

人の悩みの大半

ですがどういうわけか、私やあなたには日本的な徳の精神があります。それは合理ではなく非合理なものです。(突き詰めれば合理なのですが。)

だからこそ先生はある種の滅私の状態ということになるのです。板挟みとも言えますね。自分の中の2つの依代(資本主義と仏教)との。

これはパソコンの中にWindowsとMacが入っているようなものです。しかしこの複雑なコンプレックスなOSを持つのが人間です。

曖昧な、例えるならスーパードライのキレとコクのような相反することを中に持つのが人間と言えるでしょう。

だからこそ人は悩むのです。

部下の指導でも同じですよね。利益を上げるためには再現性が必要です。それはどこを切っても同じような、金太郎飴のような、フラクタルな構造を作り出すほうがオペレーションとしては最適解なのです。

イノベーションの源泉

と、長い間思っていたのですが、どうやら違うようです。というよりも産業構造によっては違うようなのです。

多様性というのはイノベーションを生み出します。イノベーションとは何かと何かの掛け合わせです。

音楽の例えで言えばWALK THIS WAYでしょうか。RUN-DMCとエアロスミスの曲です。正確に言うとJAY-ZとLINKIN PARK のほうがコラボなのですが。

つまり何かと何かの組み合わせは素晴らしいと喩えたかったのですが、うまく伝わったでしょうか?

BCGのレポートでもこんな報告があります。

本調査におけるもっとも大きな発見は経営層の多様性とイノベーション全般の間に、統計的に有意な強い相関があると言うことである。イノベーションにおける売上高が、売上高全体に占める割合は経営層の多様性のレベルが平均以上の企業で45%以上であったのに対し、経営層における多様性の平均レベルが平均未満の企業は26%で、19%ポイントの開きがあった。

BCGレポート

https://web-assets.bcg.com/img-src/How-

さらにEBITマージンでも9%以上の開きがあったそうです。

つまりは多様性はイノベーションの源泉であることを示唆しているのです。

つまり画一的なオペレーションではイノベーションや成長というものは産まれにくいということでしょう。

運営という点においては優秀である画一的、標準化というものは最高です。現にトヨタはオペレーションでは間違いなくNo.1の企業なのですから。

「べつ」と「ほか」

しかしイノベーションとの親和性と聞かれれば、そうでは無いというのが事実でもあります。

「しかし、そうは言ってもねぇ。多様性って面倒でしょう?」

確かにそうです。ですがそもそも面倒なOS(資本主義と仏教)を載せている私やあなたのような日本人は慣れているのでは無いでしょうか?

つまり私やあなたの中には、ある種の多様な価値観が根付いているのです。徳という感性に基づいていたり、学校で学ぶ合理性がそうですね。

これに悩まされるよりも、これを用いて人材を育成できるマネジメントというものがこれからの多様性の時代を生き抜けるのでは無いでしょうか?

確かに前出した先生のように、オペレーションのために個人を見ないというのはオペレーション、生産性(工場などにおける)の向上には繋がります。

しかし今のような時代には合わなくなってしまったのです。画一的な人では利益やイノベーションを生むことができなくなったのです。

製造業というのは人がたくさんいる国のほうが得意です。翻って私やあなたの国はどうでしょうか?いつまでも製造業のOSでアップデートせずにおいて良いものなのでしょうか?

多様性は許すことであり、認めることです。

あなたも私もOSをアップデートする必要性があるのです。それは日本人的な曖昧模糊なものでより複雑かもしれません。

最後に私の敬愛する松岡正剛さんの千夜千冊の中から抜粋させていただきます。

その最終回近く、「べつ」と「ほか」の感覚について語った。月という得体の知れない存在に寄せた人間の想像力について説明した。月は地球上の人間にとってはくりかえしあらわれる。しかもまったく正体がわからない。そこへ行った者もない。月は、われわれとは「べつのもの」「ほかのもの」なのだ。それでいて地球とつながった運動をしつづけている。
 こういう前段を話したうえで、われわれにはどうしても「べつ」とか「ほか」が必要になるときがあるのではないか、のみならず、「べつ」や「ほか」に出入りしようとする瞬間だけにパッとわかることがあるのではないか。

松岡正剛の千夜千冊

多様性の中にこそこの、べつやほかに出入りする感覚があるのでは無いでしょうか。

あなたべつであり、私もほかなのだから。

それでは、また、日曜日に。

あどりでした。

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