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アンネの日記である、あなたと私に何ができるのか?

少し前に、少しと言っても娘にとっては随分前で覚えてもいないかもしれない。上の娘と一緒にジグソーパズルを一緒にした。そんなに小さなピースではなかった。つまり簡単な数十ピースのジグソーパズル。

そのジグソーパズルには雲があった。その簡単なジグソーパズルが組み上がる、つまりあとひとつピースをはめると終わる時に、私はそのピースの位置が違うことに気づいた。

「あれ?このピースはこの上の所と逆じゃない?」と言うと彼女は「別に向き変えれば大丈夫」と言ってそのピースをはめて他の遊びにと出かけて行った。

残ったのはなんだか微妙に雲の絵が違うジグソーパズルと、違和感を感じる私。そんなもの忘れたかのように彼女は人形と共におままごとに興じている。

「まぁ子供だからそんなもんだろう」そう思いジグソーパズルから目を離して携帯に向かった。

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あなたの職場ではお茶汲みは誰がしていますか?コンプライアンスが効いている大企業ならまだしも、中小企業で働いている人は女性がお茶汲みというのが当たり前になっていないでしょうか?

前の職場で1人で遅めのお昼を食べていると、女性の事務員さんが入ってきて「あっ、ご飯まだなら掃除後にしましょうか?」と聞いてきたので私は「いえ、ご飯が遅いのは僕の勝手なんでどうぞ」と掃除を促した。

その時にふと思ったのは、あれ?自分に食堂の掃除って回ってこないな?という感想だった。思ったままでも良かったのですが、そのままにするのも気持ち悪いので事務員さんに聞いてみた。

「えっ?事務員だけで回してますよ。」と普通のことでしょ?と言ったような感じでかえってきたため、私は「いつもありがとうございます。」と言って食堂を出ていった。

掃除やお茶汲み、これらの作業をしてくれているのは事務員さんという会社は沢山あります。ずっと中小企業にいる私にはよくわかります。

あなたの家はどうでしょうか?専業主婦というのは別に悪いものではありません。その人がそう望むのであれば。

しかしこれからの時代、今まで通り、今までの価値観で暮らしていけるでしょうか?

最近パートで働かせて欲しいという男性に、正社員は如何ですか?と言って断られる事例というのを何件か見てきました。大抵が妻の方の収入が高いので家事育児をしなければならないという事情でした。

男性は働いて女性が家事育児をする。これが当然のように、当たり前のように私やあなたの頭や心に鎮座しています。これは刷り込まれてきた価値観でしかありません。かくいう私もその1人です。

しかし日本円の価値というものが下がっていけば行くほど、そのような価値観では生きていけない時代がやってきます。

日本で一生暮らせるのであれば、そのような、つまりは男尊女卑で家父長制的な価値観で暮らすことも可能です。

ですが別の国でお金を稼がなくてはいけない時代になってしまえば、そんな価値観ではやっていけません。例えばあなたはこれから先「インドで孫が産まれたらしい。」や「ドバイで働いている娘が10年ぶりに帰ってくる。」を当たり前に聞くようになる未来がおそらくやってきます。

その時にあなたは何を思うでしょうか?

それどころか「パートナーと子供を作らずに生きていくことを決めたから」と言われてあなたは何を思うでしょうか?

それどころかと文を紡いだところで、ハタっと自分の筆が、指が、気持ちが止まったのを感じました。このような価値観ではいけないと述べている私ですら、誰かの価値観を否定的な《それどころか》と接続詞を紡いでしまうのです。

私もあなたも恐らくは日本で暮らしてきた方だと思います。ひとつの価値観で生きてきた人だと思います。

それは別に悪いことではなく当たり前のことです。基本的に価値観は固定されます。経営者の息子が「回るお寿司を食べたことがないんです。」と当たり前のように言い放つのも当たり前と言えば当たり前です。

日本は綺麗な国です。

それは汚い物を見えなくしているからでもあります。

野良猫の数やホームレスの数はどんどん減っています。というよりは見えないところに追いやられています。

Xでの垢バンも仕組みとしては同じです。不快な物を消していく。不快な物を見えなくしていっています。その方が綺麗な世界になりますからね。

縦の旅行というのはどんどんしにくくなっています。縦の旅行とはカズオ・イシグロさんのこの記事です。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。
私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

Toyo keizai

同じところに住んでいても同じ生活をしているとは限りません。「秋深き隣は何をする人ぞ」ではありませんが、隣の人のヒトトナリなぞは想像でしかありません。あなたもそうではないでしょうか?

あなたの階層に居ない人は基本的に見えません。上は可視化されてきましたが下は見えているようで見えません。

例えばマックでバーガーを食べるのと、スタバでマックを開くのとでは階層が違います。スタバにジャージでくる人はほぼ居ませんが、マックには沢山居ます。

私にはタワマンに住む人やスタートアップ経営者の苦しみや喜びはわかりません。しかしタワマンに住む人やスタートアップ経営者にはわからないであろう、明日がどうなるかわからない暮らしを送る人の生活はわかります。

薬物で身を滅ぼす人や半グレになっていく人の層の見てきた、触れてきた数が違うのだから当然です。

そのような人と、ーーつまりは暮らしの階層が違う人ーーとでは触れ合う機会が無いのです。隣を歩くことはあっても関わることは無いのです。なぜならば階層が違う物どうしというのは、片方が石であり片方は砂だからです。一生混じり合うことは無いのです。

私やあなたはこのnoteで触れ合うことはできますが、もしもnoteを書いていなければ出会うことは無かったでしょう。もちろん"恐らくは"と接頭語はつくのですが。

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価値観というのは自分と他人では大きく違います。育ってきた環境や遺伝によって価値観は決まります。親がおおらかな子育てをしてきた人と厳しかった人とでは同じように見える《子育て》も全くの別物になります。

しかしながら、30代〜40代の人は私と同じ価値観の部分があるかもしれません。それはとどのつまり私やあなたは「アンネの日記」なのかもしれないというところです。

舞台は第2次世界大戦中、ドイツ占領下にあったオランダのアムステルダムの隠れ家。 ドイツのユダヤ人狩りから逃れるため身をひそめて暮らす、主人公アンネの家族や同居人たちの生活を描く。 多感な少女が歴史の荒波の中で、希望を失うことなく人の本性を信じて生きた姿が感動を呼んだ。

私はほとんど母親のワンオペで暮らしてきました。あなたもそうではないでしょうか?父親が家で家事や育児をしている姿を見たことがないといえばわかりやすいでしょうか?

そうなると母の常日頃の感情や大変さを見て育つことになります。女性というのは昔から家事育児を負担してきました。それが当たり前とされてきたからです。

しかし母にもしたいこと、やりたいことがあるはずなのにも関わらずです。今でこそ女性が大学に行くのも当たり前ですが昔はそうで無かったはずです。

それを聞いてきた世代のはずなのです。私やあなたは祖父や祖母にも邪魔されず、誰にもわからない悩みや苦しみを伝えられてきた日記なのです。

つまり迫害されながらも書き綴られてきたアンネの日記なのです。

そのアンネの日記である、私やあなたが価値観を変えていけなければ誰が変えられるのでしょうか?

個人に出来ること、というのは少ないかもしれません。しかしながら違和感のある価値観に、冒頭の彼女のように「別に向き変えれば大丈夫」とおおらかに見ることはできるのではないでしょうか?

今の視点から見ればおかしい、違和感を感じることでも向きを変えればそんなに違和感を感じないかもしれません。

視点を変える、向きを変える。そんな多様な生き方を認める方法もあるのではないかと思います。

あなたはどうでしょうか?

パズルのピースの向きを少しずつ変えてみましょう。

それでは、また、水曜日。

アドリでした。

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