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アフリカ諸国の覚え方

前回書いた世界史の良問について、および一橋世界史の解説記事が好評だった。ありがとうございます。

「なぜモザンビークとジンバブエはアフリカ統一機構への加盟が10年遅れたのか」という問いに対して60%くらいの仮説を立てて検証する能力は外国とビジネスする際にも必要だ。断片的な知識を有機的に繋げ合わせて仮説を立てていく思考のフレームワークはどんな分野でも重要だし、こうした仮説検証が常に要求される歴史科目は社会に出てからも役に立つスキルなのである。単なる無味乾燥な役に立たない暗記科目という認識を脱却して歴史科目の面白さを体感していただければ幸いだ。

アフリカ現代史の問題の解説を書いたので、せっかくだしついでにアフリカ諸国の覚え方を現代史に沿って解説していきたい。高校世界史の範囲内でアフリカ諸国の歴史の概観を解説していく。

前回記事にも書いたが、大半の国はイギリスかフランスから独立している。なので英語やフランス語を公用語としていてイギリスやフランスと深い結び付きを持っている国が多い。あまりいないと思うが、今後アフリカ諸国とビジネスなどで関わりを持ったときこうした前提知識がないとライバルから遅れをとるだろう。
話が逸れたが、大半の国は英仏領だったので、アフリカの国を覚えるにあたってまずは例外から覚えていくと簡単だ。各国がどの国から独立したのかを覚えればその国の公用語や、どの国と政治経済的結び付きが強いのかも理解できる。白地図を闇雲に覚えるより面白いし効率もいいはずだ。

1.横断政策と縦断政策

アフリカの植民地化

まず前提として覚えてほしいのが、イギリスは縦断政策で南北から、フランスは横断政策で北西と東端のジブチからアフリカ進出を進めていたということだ。両者がぶつかり合い軍事衝突した事件がファショダ事件(画像中央右 現代のスーダン南部あたり)である。
この事件は当時ドイツ帝国の拡大を警戒していたフランスが譲歩したことにより軍事衝突が避けられ、スーダンのイギリス支配が確定した。これ以降、英仏関係は融和に向かい、双方が互いの勢力圏を認め合いアフリカを分割することになった。
アフリカのほとんどの地域はこのころまでにイギリスかフランスの植民地となる。後発の列強諸国は残った地域を植民地にするのだが、この持つ国と持たざる国の格差はのちに2つの世界大戦の遠因となる。

2.大航海時代とポルトガル領

時代は遡り大航海時代、レコンキスタを完成させたポルトガルはアフリカ大陸を回って交易ルート独占のためインドを目指した。中世以降では初めてアフリカに進出したヨーロッパの国であり、どの植民地もアフリカの中では歴史が古い。
目的はあくまでインドとの交易であったので、アフリカ植民地も交易拠点の支配が多く、アフリカ大陸沿岸部やその島嶼各地に分散している。また、ポルトガル本国が経済的に衰退したため、英仏とは違ってアフリカで植民地を大きく拡大することはなかった。
ポルトガルから近い順にカーボベルデギニアビサウサントメプリンシペアンゴラモザンビークである。アンゴラとモザンビークを除いて狭い。西アフリカ沖にある島国カーボベルデはポルトガル人が辿り着いたときは無人であり、現在住んでる人はポルトガル人により連れてこられた人々の子孫だ。
ギニアビサウは同じく西アフリカにある小さい国だ。隣にフランスから独立したギニア共和国があるのでややこしい。小さい方がギニアビサウだ。首都がビサウなのでギニアビサウで、フランスから独立した方はコナクリが首都なのでギニアコナクリとか呼ばれたりする。
サントメプリンシペはギニア湾の沖に浮かぶ島国だ。アンゴラは大陸南西に位置していて石油が取れる。不均等な経済発展により首都ルアンダの物価は世界一高いと言われている。南東、マダガスカルの対岸に位置するのがモザンビークで、スエズ運河が開通するまでモザンビーク島は東西交易の中継地点だった。島の街並みは世界遺産に登録されている。

ポルトガルの植民地および交易拠点

ポルトガルは20世紀にファシスト政権が成立したが、第二次世界大戦では中立だったので独裁政権も植民地も維持された。1960年はアフリカで多くの国が独立したのでアフリカの年と呼ばれているが、ポルトガルは植民地の独立を許さなかったのでこれらの植民地では独立戦争が起こった。1975年のカーネーション革命でポルトガル独裁政権が崩壊して、アフリカのポルトガル領植民地は独立を達成する。しかしほとんどの国では政治経済が安定せず、内戦が継続した。独立戦争を戦ったが多くの国はポルトガル語を公用語としており、ポルトガル語諸国共同体という国際組織に加盟して一定の交流を維持している。

青色がポルトガル語諸国共同体加盟国
緑色がオブザーバー参加国
黄色が加盟希望国

3.スペイン領はなぜ少ないのか

スペインもアフリカに植民地を持っているが、アフリカの中では圧倒的に存在感がない。スペイン領サハラ、スペイン領モロッコ、スペイン領ギニアくらいである。スペインと言えばポルトガルと同じ時期に大航海時代を迎え海外進出を始めた国なのになぜだろう。
これはトルデシリャス条約というポルトガルとスペインが結んだ条約の影響である。これによりアメリカ大陸の大部分はスペインの勢力圏となったが、アフリカ大陸はポルトガルの勢力圏となったのだ。ポルトガルとは異なりスペインのアフリカ植民地はすべて18世紀以降列強と結んだ条約の中で獲得したものである。

トルデシリャス条約による世界分割

旧スペイン領で独立国家となったのはギニア湾沖の赤道ギニアのみである。アフリカ諸国では珍しくスペイン語が公用語のひとつとなっている。また、首都が島に存在してかつ大陸に領土(海外領土を除く)を所有するのは赤道ギニアとデンマークのみである。たまにクイズで出たりする。
旧スペイン領モロッコの多くはモロッコに変換されたが、セウタメリリャは今でもスペイン領だ。EU入りを目指すアフリカ系移民がセウタとメリリャを目指して押し寄せている。独立国ではないがこの2つの地名は覚えておいても損はないだろう。ヨーロッパの難民問題で結構話題に上がる。
旧スペイン領サハラは西サハラと呼ばれる地域で、アラブ系およびベルベル系の先住民が独立を企てていたが、モロッコが領有権を主張して侵攻してきた。沿岸部はモロッコ軍が実効支配しており、内陸部は独立勢力が支配している。ほぼモロッコ優勢であるが、この地域を巡ってアフリカ連合とモロッコは対立しており、モロッコは脱退していた時期もある。ちなみにこの独立勢力はポリサリオ戦線というがなんか名前がカッコいい。重要な紛争地帯だが日本との関わりは薄い。あの辺の海岸でタコが獲れるくらい。あなたが食べてるモロッコ産海産物ももしかしたら西サハラで獲れたものかもしれない。

4.イタリア領

イタリア領アフリカ

イタリアとドイツは植民地競争において持たざる国であった。イタリアは特にシンプルである。まずイタリア半島の対岸のリビアにあたる地域だ。そしてエチオピア帝国から切り取ったエリトリア、そして現代のソマリアにあたる地域の一部である。
リビアはカダフィ大佐で有名だった国である。石油など資源が豊富だ。カダフィ政権崩壊後内戦が続いている。
エリトリアは第二次世界大戦後エチオピアに併合されるが、独立紛争を起こしてエチオピアからの独立を果たした。世界最悪の監視国家を築いてしまったが、そのおかげが政情はアフリカにしては安定している。イタリア植民地時代の美しい街並みが残る。エリトリアおよびソマリアはイタリア食文化の影響を受けてパスタを食べる習慣が根付いている。ソマリアではパスタは手づかみで食べられる。
イタリア領ソマリアは英領ソマリアとともに戦後ひとつのソマリアとして独立するが、内戦により国家が崩壊した。旧英領側はソマリランドとして半独立状態にある。このあたりの経緯は高野秀行氏の『謎の独立国家 ソマリランド』に詳しい。

5.ドイツ領

ドイツも同じく持たざる国である。

ドイツのアフリカ植民地

第一次世界大戦の敗戦によりドイツの持っていた植民地は英仏に割譲された。そのため一部地域を除きあまりドイツ語は定着していない。しかしヨーロッパ諸国の支配の中でも苛烈であったことで有名で人頭税や強制労働に対する反発から現地住民の反乱が相次いだ。期間が短かったのもあるがあまり経済発展を迎えることなく、敗戦とともにドイツはアフリカの植民地を失うことになる。
ドイツは西アフリカ、南部アフリカ、東アフリカに植民地を持っている。西アフリカはトーゴカメルーン、南部アフリカはナミビア、東アフリカはタンザニアブルンジルワンダとなった。

6.ベルギー領コンゴ

さて、最も悪名高いのがベルギー領コンゴである。

ベルギー領コンゴ

この地域は現代のコンゴ民主共和国に該当する。また隣のコンゴ共和国はフランス領から独立した別の国である。

ベルギー領コンゴは植民地というよりは国王レオポルド2世の私領であり、コンゴ自由国とも呼ばれていた。

レオポルド2世

レオポルド2世は最初アラブ人奴隷商人による黒人狩りからコンゴ人を守ろうと腐心していたが、やがて現地人を使役したゴムと象牙の商売に熱をあげるようになる。

当時天然ゴムの需要が世界的に高まっており、レオポルド2世はコンゴ人たちに苛烈なノルマを課した。ノルマを達成できなかった労働者は手を切り落とされた。大人から子供関係なく。過酷な労働と支配によってコンゴの人口は70%近く減ってしまったと言われている。

腕を切り落とされたコンゴ人たち

これにはさすがの西欧列強諸国もドン引きであった。特にイギリスからの批判が激しく、ベルギー議会も無視できなくなり、国王の崩御後レオパルド2世の私領であったコンゴ自由国なベルギーの植民地として正式に組み込まれた。植民地化後、ベルギーはコンゴに教育を導入してインフラの整備を行なった。コンゴ自由国時代よりはマシな統治が行われた。

近年ベルギーにてアフリカ系移民がレオポルド2世の銅像を破壊する事件が起こった。キャンセルカルチャーは嫌いだが、レオポルド2世に関しては妥当だなと思ってしまった。

7.西アフリカの英領植民地

西アフリカのほとんどはフランス領だったが、例外的にいくつかイギリスの植民地がある。

英領西アフリカ

西から順番にガンビアシエラレオネガーナナイジェリアである。

ガンビアは周りをセネガルに囲まれている。ガンビア川流域の非常に細長い国だ。一番幅の大きい地域でも48キロメートルしかない。細長い国といえばチリが有名だが、あれは一番細いところでも静岡県の長さくらいはあるらしい。チリの東西分裂というジョークがあるが、ガンビアが南北分裂した方がよっぽど大変である。

ガンビアの国土

シエラレオネは国家がファミマの色みたいということで定期的に話題になる。ガーナとナイジェリアはたぶん西アフリカで一番有名な国なので特に言うこともないだろう。両方ともイギリス領だ。ちなみに8〜11世紀の間に栄えたガーナ王国という国があるが、現代のガーナ共和国とは1ミリも領土が被っていない。独立時にガーナの偉い人が勝手にパクっただけである。独立前は英領ゴールドコースト(黄金海岸)と呼ばれていた。
ナイジェリアの歴史について何年か前に新書が出たので興味ある人は読んでみてほしい。良くも悪くも西アフリカで一番アツい国だ。

8.東アフリカの仏領植民地

さて、東アフリカも大部分はイギリス領だがこちらにもいくつか例外的にフランス領がある。

水色がフランス領

まずはフランス領ソマリランド、これは現代ではジブチにあたる地域だ。歴史的にソマリ人の住む地域であるが、ソマリアには加わらず独立を維持している。内陸国となったエチオピアの港としても機能しているが、軍事上の要衝として各国に軍港を提供している。自衛隊が派遣されたのもジブチだ。

次に某お笑い芸人で有名になったマダガスカルである。

そこはインドだ

アフリカでは珍しいアジア系の言語が話されている。混血が進んで風貌こそ黒人であるが、マダガスカル人の先祖は千年以上前にボルネオ島からアウトリガーカヌーでやって来た。マダガスカル島の高原地帯に住み着いて独自の王国を築いた。言語はマレー系と似ていて、文化はイスラーム化、インド化以前の太古のマレー文化を受け継いでいる可能性がある。

オーストロネシア語族の分布
西端がマダガスカル

マダガスカルの北西にはコモロ諸島があり、そのうち3つの島はコモロ連合として独立した。マヨット島はフランスの海外県であるが、コロモはマヨットの領有と返還を要求している。


9.あらためて、英領アフリカ

旧英領植民地
イギリスは南北からアフリカ植民地を拡大していった

①ケープ植民地

アフリカ南部はもともとオランダがケープ植民地として所有していたが、ナポレオン戦争の混乱の中でイギリスが奪った。金やダイヤモンドを目当てに多くのイギリス人が移住した。元々住んでいたオランダ系住民は北へと逃れてトランスヴァール国、オレンジ自由国を建国する。しかし20世紀に入るとオランダ系住民の国も英領南アフリカ連邦に併合されてしまう。
戦後これらの国々は南アフリカエスワティニ(スワジランド)レソトジンバブエボツワナザンビアとなる。南アフリカやジンバブエは独立後も白人が実権を握り、アパルトヘイト政策を実施したことで有名だ。レソト、スワジランドは南アフリカに周囲を囲まれた小さい王国だ。完全に南アフリカに囲まれていて立憲君主制なのがレソトで、モザンビークとも国境を接していて、絶対君主で毎年国王の前で国中の少女が裸踊りすることで有名なのがスワジランドだ。間違えないようにしてほしい。ボツワナとザンビアは資源が豊富であり、ボツワナはアフリカでは珍しく政情が安定しており順調な発展を遂げている。

②エジプト・スーダン・東アフリカ

ナポレオン戦争を機にイギリスのエジプト進出は始まった。オスマン帝国の弱体化に乗じて半独立状態だったエジプトをイギリスは保護国化して、そこを拠点に南進を始める。スーダンではフランスと衝突しかけるも、フランスが譲歩したためエジプトおよびスーダンの支配が確定した。
イギリスは東アフリカにも植民地を持っていた。戦後ケニアウガンダとして独立することになる。英領ソマリランドは戦後イタリア領ソマリランドと一緒に独立してソマリアになるが、内戦で国家が崩壊して英領はソマリランドとして半独立状態である。

10.仏領アフリカの諸々

旧フランス領植民地

①仏領北アフリカ

北アフリカのうちアルジェリアチュニジアモロッコがフランスの植民地である。オスマン帝国の衰退に乗じてアルジェリアから徐々に植民地を拡大していった。これらの国々はアラブ諸国ではあるが、フランスとの結び付きも強い。現代でもフランス語学習が盛んな国々である。

②仏領西アフリカ

色々ある。厳密に言うと西アフリカ植民地と赤道アフリカ植民地に別れるが、中西部一帯はほとんどフランスから独立しており、現代でも第一公用語がフランス語であるということを覚えていれば十分だ。有名どころだとセネガルとかコートジボワールとか。セネガルは料理が美味しいし、コートジボワールは昔は象牙海岸という名前で知られていた。興味湧いた国があれば色々調べてほしい。色々あるので。

11.アフリカの独立国

アフリカのほとんどは植民地化されてしまうが、エチオピアリベリアだけは独立を維持した。

①エチオピア

アラビア半島からメソポタミアの文明が伝わり、古くはアクスム王国が栄えた。サブサハラアフリカでは唯一の独自の文字を発明し、その文字はゲエズ文字として現代エチオピア及びエリトリアで使用されている。アクスム王国最盛期の支配地はアラビア半島まで到達した。

アクスム王国

途中何度か王朝は途絶えるが、現代エチオピアに連なる国はこのアクスム王国の文明に属するものである。古くからキリスト教を受け入れており、大航海時代のヨーロッパ人からはプラスタージョンの国として信じられた。王国滅亡後は諸侯が群雄割拠する戦国時代に突入するも、独自のキリスト教を中核としたアムハラ人の文明はエチオピアの険しい山岳地帯に守られ育まれた。
近代になり、ヨーロッパから武器を調達したソロモン朝はエチオピア全土を統一した。エリトリアやソマリアなどはヨーロッパに奪われるも、明治日本などをモデルに近代国家建設を推進した。
もともとはアビシニアと呼ばれていたが、ソロモン朝の人々はその呼び名を嫌っており、自らの正当性を強めるため聖書からエチオピアという名前を取ってきて自分たちの国名にした。エチオピアとは本来ナイル川の南の方の地域を漠然と指している言葉であり、必ずしも現代のエチオピアとは一致しない。というか多分一切関係ないだろう。国家の正当性を持たせるためには仕方ないのだ。
世界最古の王朝と噂されるが、実態としては諸侯が我こそはアクスム王国の系譜だと名乗っていただけで、本当に血の繋がりがあるのかは怪しい。そんな王朝だったが、革命で皇帝が殺されてしまった。エチオピア皇帝が廃された今、エチオピアがエチオピアとしてまとまる理由は弱い。独自の歴史と文化がある国だが、色々と危うい。最近は北部のティグレ人とやり合っていた。アフリカ最古の独立国、この先どうなる?

②リベリア

リベリア国旗

アメリカの解放奴隷が出戻りで建てた国だ。アメリカの黒人は西アフリカから強制連行された奴隷たちだ。先祖伝来の地に帰って幸せに暮らそうじゃないか。
理想だけはよかったが、アメリカ帰りの黒人と先住民との対立が深まる。経済不況も続き、20世紀後半に凄惨な内戦に突入した。

ちなみにリベリアにはレバノン系住民など非黒人も住んでいるが、黒人の優位性確保のために選挙権が認められていない。

黒人の、黒人による、黒人のための政治!
黒人の自由を守るためならどんな差別も厭わない。それが自由の国リベリアである。


12.ね!簡単でしょ!


んなわけあるか!
アホ!
多いし難しいわ!

自分で書いててノリツッコミしたくなった。
書き始めたときは簡単だと思ってたんだ。
申し訳ない。

まずアフリカは広い。
インド、中国、アメリカ、ヨーロッパ主要国、日本が全部詰め込めるくらい広いのだ。

アフリカは広い

そして少なく見積もってこれだけの民族がいる。

アフリカ諸民族の境界線分布図

それをたった7カ国で分割していた時代がそもそもおかしいのだ。
アフリカは多様であり、現代のように55ヵ国で分けるのも大雑把過ぎるのだ。

現代アフリカ諸国

アフリカのほとんどの国は多民族国家である。列強諸国が勝手に国境線を引いたからというのもあるが、デフォルトで民族が多過ぎるのだ。
仮に民族分布に沿った正確な国境を引いたら今度は過度に細分化されて、経済的に成り立たない共同体がたくさん出てくるだろう。そしてその民族の領域の中にもマイノリティが住んでいて複雑に入り組んでいる。つまりアフリカはどの国もどのような形態であれ他民族でやっていくしかないのだ。
文化も言葉も異なる異民族同士が隣り合って暮らしており、皆んなが皆んな仲がいいわけでもない。対立している民族もいる。ヨーロッパ人による支配がなくても前途多難な大陸なのだ。アフリカが発展していくためにはヨーロッパ人が引いた国境を受け入れて、その枠組みの中で力を合わせて国を発展させていくしかない。

宗主国との関係、国内外の民族同士の関係、国家間の関係、都市と村落、過酷な自然環境の中で苦悩する大陸、それがアフリカという地域であり、この困難に満ちた環境の中でも逞しく生きる人々がアフリカの魅力でもあるのだ。

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