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支那方面艦隊司令長官伝 (10)長谷川清

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は長谷川清です。
 総説および前回の記事は以下になります。

長門艦長

 長谷川はせがわきよしは明治16(1883)年5月7日に福井で医師の子として生まれた。海軍将校を志して江田島の海軍兵学校に入校する。明治36(1903)年12月14日に第31期生173名の6位で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席は枝原えだはら百合一ゆりかずだった。遠洋航海を想定してか、いったんは巡洋艦松島まつしまに乗り組んだが、日露戦争の開戦を目前にして遠洋航海はとりやめとなり、候補生たちも部隊に配属された。長谷川の配属先ははじめ戦艦八島やしまだったがまもなく5月15日に機雷に触れて沈没してしまい、聯合艦隊旗艦をつとめる戦艦三笠みかさに移った。黄海海戦に参加したあとの明治37(1904)年9月10日に海軍少尉に任官し、日本海海戦では艦橋で東郷とうごう平八郎へいはちろうの側近く勤務して絵にも描かれたが測距儀を覗いていて顔は隠れている。海戦後の明治38(1905)年8月5日に海軍中尉に進級するが、9月11日夜に佐世保軍港に停泊中の三笠が爆発事故を起こして沈没してしまう。二度も続けて乗艦が沈没の憂き目を見たことになる。このとき負傷したのかしばらく佐世保鎮守府附に置かれ、三景艦の1隻である厳島いつくしまに乗り組んだ。平常体制に復帰すると厳島は新編された練習艦隊に編入された。長谷川は兵学校で一号生徒だったときに三号だった第33期生の候補生とともに、候補生としては行けなかった遠洋航海で清国、オーストラリア、東南アジアを巡ることになる。
 帰国すると引き揚げられた三笠にふたたび配属される。三笠はなお修理中で乗組員はそれを監督し補助する役割だった。佐世保水雷団第九駆逐隊に所属する駆逐艦白妙しろたえに乗り組んではじめて水雷の道に踏み込んだ。同じ佐世保水雷団の第十艇隊(水雷艇隊)附に移り、水雷部隊での勤務が続く。明治41(1908)年9月25日には海軍大尉に進級する。海軍大学校乙種学生と海軍水雷学校高等科学生を続けて修了して自他共に認める水雷屋となった。装甲巡洋艦浅間あさまと防護巡洋艦笠置かさぎの分隊長、第二艦隊参謀(長官は島村しまむら速雄はやお)をつとめて水雷学校でいわゆる「御礼奉公」になる教官に補せられる。1年間つとめて海軍大学校甲種学生(第12期生)を命じられ、在校中の大正2(1913)年12月1日に海軍少佐に進級した。
 甲種学生を修了すると三等駆逐艦三日月みかづきではじめて駆逐艦長に補せられたが、第一次世界大戦が始まりドイツが租借していた中国山東省の青島の攻略を担当することになった第二艦隊参謀を命じられた。第二艦隊司令長官は加藤かとう定吉さだきちで、のちに長谷川は副官も兼ねることになる。なおこの作戦中に長谷川がかつて乗り組んでいた駆逐艦白妙が海岸に乗り上げて全損となっている。加藤定吉など第二艦隊司令部が凱旋すると長谷川も海軍省人事局に移った。長谷川にとって最初の海軍省勤務であり、中央官庁での勤務だった。ついで秘書官として海軍大臣の加藤かとう友三郎ともざぶろうに仕えることになる。長谷川の考え方は加藤友三郎に大きく影響されたと言われる。第一次世界大戦に参戦した直後のアメリカに駐在を命じられ、大使館附海軍武官の補佐官をつとめた。はじめ武官は野村のむら吉三郎きちさぶろうだったが正式に補佐官に発令されたときには上田うえだ良武よしたけに交代していた。
 アメリカ駐在中の大正7(1918)年12月1日に海軍中佐に進級し、帰国後大正9(1920)年度の残りは第一水雷戦隊参謀をつとめた。翌年度は海軍省人事局に復帰し、大正11(1922)年12月1日に海軍大佐に進級すると人事局第一課長に補せられた。翌年度にはふたたびアメリカに、今度は大使館附海軍武官として、永野ながの修身おさみのあとを継いで赴任することになる。度重なるアメリカ勤務で長谷川は対米戦争回避を確信した。この態度は後任者である山本やまもと五十六いそろくにも共有される。帰国後はまず旧式の装甲巡洋艦日進にっしんの艦長に補せられた。これは本格的に艦隊に復帰する前に勘をとりもどすことを目的としていたようだ。翌大正16/昭和2(1927)年度には聯合艦隊旗艦である戦艦長門ながとの艦長をつとめた。海軍軍人の誰もが望む配置だが、加藤かとう寛治ひろはる長官は長門の艦橋で美保関事件の報せを聞くことになる。加藤長官と高橋たかはし三吉さんきち参謀長が大川内おおかわうち伝七でんしち参謀に叱責されたというエピソードも長門艦橋での出来事であり長谷川艦長はそれを間近で目撃したはずである。長谷川と加藤はともに福井出身で同郷になるがその立場は大きく異なる。しかし長谷川は加藤に対して同郷の先輩としての礼儀を保ち続けた。

台湾総督

 昭和2(1927)年12月1日に海軍少将に進級すると横須賀鎮守府参謀長に補せられた。司令長官は安保あぼ清種きよかず、のち吉川よしかわ安平やすひら山本やまもと英輔えいすけと代わる。昭和5(1930)年度は艦隊に戻り、第二艦隊に属する第二潜水戦隊の司令官に補せられる。海大型潜水艦で編成され、戦隊旗艦として潜水母艦長鯨ちょうげいが配属されていた。翌年度は海軍艦政本部で潜水艦を担当する第五部長に補せられた。さらに翌年度は呉工廠長に転じている。呉工廠は艦船建造全般に強いが特に潜水艦に強いとされており長谷川が潜水艦色を強めている気配を感じる。しかしここでジュネーブで開かれた軍縮会議の全権随員として海外赴任する。ワシントンとロンドンでいちおう海軍の軍縮は実現したが陸空軍の軍縮は毒ガスの禁止などを除けば不十分だった。国際連盟は軍縮をその目的のひとつに掲げており、長年の懸案だった一般軍縮会議を開くことになる。長谷川はこうしてヨーロッパに渡ることになるが、会議の先行きは不透明だった。恐慌で経済的に苦しい各国はかえってブロック経済化を推し進めてその後ろ楯となる軍備増強に走っていた。会議中に起こったドイツでのナチ政権樹立は象徴的だった。日本も満州事変の結果国際連盟を脱退するにいたる。長谷川は昭和7(1932)年12月1日にジュネーブで海軍中将に進級し、さらに随員から全権に昇格したが会議自体は袋小路に陥りやがて成果を生まないまま終了した。
 帰国した長谷川は大角おおすみ岑生みねお海軍大臣によって海軍次官に起用される。大角大臣は艦隊派に迎合したといわれることが多いが本人はどちらかといえば中間派で、政権維持のためにバランスをとろうとしたのかもしれない。まもなく帝人事件で斎藤さいとうまこと内閣は退陣するが、後継の岡田おかだ啓介けいすけ内閣に大角大臣は留任した。しかし二二六事件では曖昧な態度をとった結果退任を余儀なくされる。後任の大臣は永野修身だった。長谷川にとって永野は駐米武官としての前任者である。次官を2年半つとめた長谷川は交代することになり、永野大臣が後任に選んだのは山本五十六だった。長谷川と山本はアメリカ時代から親しく考えも似ており文句はなかった。
 第三艦隊の司令長官に親補されて上海に着任した長谷川は前任者の及川おいかわ古志郎こしろうと違って中国に詳しいわけではなかったが、現地の要人としばしば面談し、その誠実公正な態度は高く評価された。しかし中国大陸では国民党政府と共産党の対立が共産党軍の華南根拠地放棄、長征と北西根拠地樹立でいったん小康状態になっていた。さらに前年末の西安事変でいちおうの和平が成立しており、反日気運が高まっていた。こうした状況で日中間の武力衝突から全面戦争に発展する。上海付近でも戦闘が起こり、長谷川の第三艦隊が前面に立つことになる。上海から南京にいたる揚子江下流域が主戦場になり、隷下部隊の大半がつぎ込まれた。しかし華北から陸軍部隊が南下して山東省に入ると山東省沿岸の警戒にあたる必要が出てきた。第三艦隊は中国大陸全域を担当するとされていたが、実際には揚子江地区の作戦で手一杯で、地理的に離れた山東地区まで手が回らなかった。そこで華北を担当する第四艦隊を新編し、第三艦隊は揚子江地区の作戦に専念することとなった。両艦隊をあわせ指揮する支那方面艦隊司令部を新設し、中国大陸方面作戦全般の調整にあたることになる。支那方面艦隊司令部は第三艦隊司令部がそのまま兼務することになったが、加上される任務は全体の調整くらいでそれほど重いものではなかった。しかし聯合艦隊を除いて複数の艦隊を指揮下にもつ艦隊がはじめて編成されたことになる。長谷川は支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に親補された。
 南京攻略作戦では揚子江上でアメリカ砲艦パネイを誤って撃沈するという事件を起こしたが長谷川はただちに誤りを認めて謝罪し大事には至らなかった。戦後のことになるが長谷川はこの事件の責任者として極東軍事裁判への訴追が検討されたが結局不起訴になる。南京が陥落しても国民党政府は内陸部に移転して抵抗を続けた。やがて華南を担当する第五艦隊が編成されて支那方面艦隊は3個艦隊体制となる。持久戦に移ろうかという時期に帰国して横須賀鎮守府司令長官に親補されることになる。後任は及川古志郎が復帰した。
 昭和14(1939)年4月1日に海軍大将に親任され、昭和15(1940)年5月には軍事参議官に転じる。この年の9月に吉田よしだ善吾ぜんご海軍大臣が病気で退任すると、長谷川も有力な候補者だったが同期生の及川が就任する。及川は三国同盟に賛成する。この年末に小林こばやし躋造せいぞうと交代して台湾総督に就任した。朝鮮総督は陸軍軍人がつとめる慣例となっており、それに対抗するために海軍が台湾総督のポストを求めたともいわれるが、海軍の伝統思想である南進の拠点になるというのも理由だった。小林総督はすでに予備役だったが長谷川は現役のまま総督をつとめ、戦時に軍の指揮権を行使する余地を残した。太平洋戦争の冒頭、台湾は米領フィリピンへの攻撃拠点となった。その後台湾はしばらく後方に位置して安定していたが昭和19(1944)年も後半に入るとフィリピンが奪還され台湾も攻撃を受けるようになる。台湾への連合軍の侵攻が真剣に憂慮されるようになると防衛と行政の統一をはかるために陸軍の台湾軍司令官が台湾総督を兼ねることになり、長谷川は軍事参議官として帰京した。なお結局、連合軍による台湾侵攻はなかった。
 戦前、戦中の要所で長谷川は海軍大臣の有力候補であり続けたが台湾総督を更迭してまでとはされなかった。昭和20(1945)年4月の鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣でも候補になったが長谷川自身が「米内よないさんではいけないのか」と米内光政みつまさの留任を主張して結果として長谷川海軍大臣はとうとう実現しなかった。敗戦後の昭和20(1945)年11月30日、海軍省が廃止されるのと同時に予備役に編入され、62歳で現役を離れた。

 長谷川は誠実な紳士として知られたが同時に遊び好きでもあり料亭では芸者にもてたという。「馴染みの芸者に小料理屋でももたせて自分は呑んで暮らすのが夢だった」と抜け抜けと語っていた。

 長谷川清は昭和45(1970)年9月3日死去した。享年88、満86歳。海軍大将正三位勲一等功一級。

海軍大将 長谷川清 (1883-1970)

おわりに

 長谷川清は米内光政などに隠れていますが海軍の良識派の代表的な人物でした。だからこそ戦時中は台湾総督に追いやられていたのかもしれません。

 長谷川のあとの支那方面艦隊司令長官は及川古志郎、嶋田繁太郎、古賀峯一、吉田善吾と続きます。それぞれ以下の記事を参照ください。

 次回は近藤信竹です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日露戦争初期に乗り組んだ戦艦八島)

附録(履歴)

明16(1883). 5. 7 生
明36(1903).12.14 海軍少尉候補生 松島乗組
明37(1904). 1. 4 八島乗組
明37(1904). 5.23 三笠乗組
明37(1904). 9.10 海軍少尉
明38(1905). 8. 5 海軍中尉
明38(1905). 9.23 佐世保鎮守府附
明38(1905).11.21 厳島乗組
明39(1906). 8. 8 佐世保鎮守府附
明39(1906). 8.30 三笠乗組
明40(1907). 2.23 白妙乗組
明40(1907). 9.28 第十艇隊艇長心得
明41(1908). 9.25 海軍大尉 第十艇隊艇長
明42(1909). 5.25 海軍大学校乙種学生
明42(1909).11.24 海軍水雷学校高等科学生
明43(1910). 5.23 浅間分隊長
明43(1910). 6.24 笠置分隊長
明44(1911). 3.11 第二艦隊参謀
明44(1911).12. 1 海軍水雷学校教官兼分隊長
明45(1912). 5.22 海軍水雷学校教官兼分隊長/海軍工機学校教官
大元(1912).12. 1 海軍大学校甲種学生
大 2(1913).12. 1 海軍少佐
大 3(1914). 5.27 三日月駆逐艦長
大 3(1914). 8.24 第二艦隊参謀
大 3(1914).12. 1 第二艦隊副官兼参謀
大 4(1915). 2. 1 海軍省出仕
大 4(1915). 2. 5 海軍省人事局局員
大 5(1916). 4. 1 海軍省副官/海軍大臣秘書官
大 6(1917).12. 1 米国駐在被仰付
大 7(1918).12. 1 海軍中佐
大 8(1919). 3.20 米国駐在被仰付・米国駐在帝国大使館附海軍武官補佐官
大 8(1919). 4. 1 米国駐在帝国大使館附海軍武官補佐官
大 9(1920). 4. 1 帰朝被仰付
大 9(1920). 6. 3 第一水雷戦隊参謀
大 9(1920).11.15 海軍省出仕
大 9(1920).12. 1 海軍省人事局局員
大11(1922).12. 1 海軍大佐 海軍省人事局第一課長
大12(1923).11. 1 海軍軍令部出仕/海軍省出仕
大12(1923).11.10 米国駐在帝国大使館附海軍武官
大14(1925).12. 1 帰朝被仰付
大15(1926). 5. 1 日進艦長
大15(1926).12. 1 長門艦長
昭 2(1927).12. 1 海軍少将 横須賀鎮守府参謀長
昭 4(1929).11.30 第二潜水戦隊司令官
昭 5(1930).12. 1 海軍艦政本部第五部長
昭 6(1931).12. 1 呉海軍工廠長
昭 7(1932).10.10 海軍軍令部出仕/海軍省出仕
昭 7(1932).10.22 ジュネーヴ軍縮会議全権随員
昭 7(1932).12. 1 海軍中将
昭 8(1933). 4.25 ジュネーヴ軍縮会議全権
昭 9(1934). 2.14 軍令部出仕/海軍省出仕
昭 9(1934). 5.10 海軍次官・海軍将官会議議員
昭11(1936).12. 1 第三艦隊司令長官
昭12(1937).10.20 支那方面艦隊司令長官/第三艦隊司令長官
昭13(1938). 4.25 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
昭14(1939). 4. 1 海軍大将
昭15(1940). 5. 1 軍事参議官
昭15(1940).11.27 台湾総督
昭19(1944).12.30 軍事参議官
昭20(1945). 6. 1 軍事参議官/海軍高等技術会議議長
昭20(1945).11.30 予備役被仰付
昭45(1970). 9. 2 死去

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