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海軍軍人伝 大将(7) 中村良三

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は中村良三です。
 前回の記事は以下になります。

春日艦長

 中村なかむら良三りょうぞうは明治11(1878)年7月26日に津軽弘前藩士の家系に生まれた。日清戦争後に江田島の海軍兵学校に入校して海軍将校をめざす。明治32(1899)年12月16日に第27期生114名の首席として卒業し海軍少尉候補生を命じられた。この年の遠洋航海はコルベット金剛こんごう比叡ひえいの姉妹艦でおこなわれ、中村は金剛に乗り組んだ。香港、東南アジア、オーストラリアから南太平洋を巡って帰国し、戦艦敷島しきしまに配属される。明治34(1901)年1月18日に海軍少尉に任官した。いったん横須賀海兵団に配属されて敷島に戻り、比叡、装甲巡洋艦磐手いわて乗組を経験して明治35(1902)年10月6日に海軍中尉に進級した。分隊長として扶桑ふそうに乗り組んだが、扶桑は四半世紀前にイギリスで建造された装甲艦ですでに老朽化していた。この状態で日露戦争が始まる。扶桑も動員されたがもっぱら警戒監視にあたって戦闘には投入されなかった。戦時中の明治37(1904)年7月23日に海軍大尉に進級した。おそらくもどかしい思いを抱えていた中村は旅順陥落後にようやく第一線の巡洋艦明石あかしに移ることができた。明石では航海長として日本海海戦に参加する。
 日露戦争の開戦後、日本海軍は戦力の急速増強の一貫としてイギリスに戦艦を発注していた。新味はなく短期建造を最優先したがそれでも就役は戦後になり戦争には間に合わなかった。その香取かとりを受けとるためにイギリスに派遣されることになる。半年あまりで香取とともに無事に帰国すると砲術学校の高等科学生を修めて鉄砲屋の道を歩き始める。学生のあと短期間の「お礼奉公」として教官をつとめたあと、巡洋艦阿蘇あそ八雲やくもの砲術長を歴任した。少佐進級を目前にして海軍大学校甲種学生(第8期生)を命じられる。在校中の明治42(1909)年7月11日に海軍少佐に進級している。海大修了後はいったん装甲巡洋艦筑波つくば砲術長をつとめたあと、海軍軍令部で参謀勤務を始める。
 第二艦隊参謀として加藤かとう定吉さだきち長官に仕えているあいだに第一次大戦が始まった。敵国となったドイツが租借していた中国青島ちんたおを攻略する任務が第二艦隊に与えられたが、作戦の最中に第一艦隊参謀に移される。中村は残念だっただろうが一介の少佐参謀とあっていかんともし難かった。まもなく大正3(1914)年12月1日に海軍中佐に進級して装甲巡洋艦で編成された第四戦隊参謀に補された。なお艦隊の一部を戦隊に区分することは正式にはこのころ始まった。軍令部に復帰して作戦を担当する第一課長を命じられる。第一次大戦中の作戦計画とともに構想段階の八八艦隊を前提とした作戦の立案にあたった。第一次世界大戦が終わりに近づいたころにヨーロッパ視察を命じられてイギリスに派遣される。休戦成立直後の大正7(1918)年12月1日に海軍大佐に進級し、ベルサイユでの講和会議の成り行きを見届けて帰国した。帰国後は2年半にわたって海軍大学校の教官、教頭をつとめる。装甲巡洋艦春日かすがの艦長を短期間つとめたあと第二艦隊の参謀長に補せられた。長官は中野なかの直枝なおえ、のち加藤かとう寛治ひろはるである。関東大震災では第二艦隊も東京湾に入って被災者の救助にあたった。

海軍艦政本部長

 大正13(1924)年度の艦隊では第一水雷戦隊司令官に補せられた。戦隊は呉鎮守府に所属する二等駆逐艦を主力として編成された。年度はじめの大正12(1923)年12月1日に海軍少将に進級する。上官にあたる聯合艦隊司令長官は竹下たけしたいさむだったが鈴木すずき貫太郎かんたろうに代わった。司令官は1年で終わって古巣の軍令部に戻り情報を担当する第三班長を命じられた。軍令部長は当初山下やました源太郎げんたろうだったが半年ほどで鈴木貫太郎に交代する。
 さらに海軍大学校長に移って昭和2(1927)年12月1日には海軍中将に進級した。海軍大学校は海軍大臣の隷下に置かれたが参謀教育や作戦研究を行っていたこともあって軍令部との関係が深い。ロンドン軍縮問題で海軍が揺れたときには3年間の校長在職を終えて軍令部出仕にあって騒動からは離れた位置にいた。中村は艦隊派の首領である加藤寛治やその子分で同期生の末次すえつぐ信正のずまさと親しく彼らからは仲間と見なされていたようだが、中村本人は「確かに親しくしているが考え方は必ずしも同じではなく、艦隊派というわけではない」と否定していたという。
 昭和6(1931)年度には第二艦隊の司令長官に親補された。相方で上官でもある聯合艦隊司令長官は山本やまもと英輔えいすけである。在職中に満州事変がはじまったが海軍の関与はほぼなく、上海事変に海軍が巻き込まれたときには中村はすでに艦隊をおりて佐世保鎮守府司令長官に移っていた。さらに呉鎮守府司令長官に転補されて昭和9(1934)年3月1日に海軍大将に親任される。

 大将進級直後の昭和9(1934)年3月12日、佐世保沖で訓練中だった水雷艇友鶴ともづるが転覆するという事故が起きた。腹を上にして浮いていた友鶴はそのまま佐世保まで曳航されて10人あまりの乗員を救出することができたが艇長以下100名が殉職した。水雷艇は、軍縮条約で総量が制限されている駆逐艦の不足を補うために条約の制限外になる600トン未満の船体に重武装を施したもので実質的には小型駆逐艦だった。しかし小さな船体に過度の重武装を施した結果、重心が上昇して不安定になっていた。こうした傾向は近年強くなる一方で「新しい船ほど危ない」といわれた。性能要求を行うのは軍令部だが、実際に設計するのは艦政本部である。設計者は専門家の観点から技術的な実現性を判断するべきだったが、使用者である軍令部の要求を安易に取り入れて危険性を見逃した。海軍艦政本部長のすぎ政人まさと中将は責任を負って辞職した。杉は機関学校出身者としてはじめて艦政本部長に補職され、さらにはじめての大将が期待されていたが友鶴事件で実現しなかった。
 後任の艦政本部長に大将の中村が補職されたのは異例のことである。海軍大臣隷下の艦政本部長は天皇直隷の艦隊や鎮守府司令長官よりも格下で、定員では海軍中将または少将があてられることになっていた。他に人材がなかったわけではないが敢えて大将の中村をあてたのは、その権威でもって艦政本部内部の雰囲気を安全重視に転換するとともに、使用者側の無理な要求をはねつける力をもたせようとしたのだろう。辞令の上では本職は親補職である軍事参議官とし海軍艦政本部長を兼職としたが、実際の本職は艦政本部長だった。さらに翌年には演習中に台風のため多くの艦艇が損傷を受けるといういわゆる第四艦隊事件が起こり、強度に不足があることが露呈した。これも船体を少しでも軽くしたいという志向の結果で、友鶴事件で発覚した安定性の不足と根本的には同じ発想の帰結である。結果としてこの時期に相次いでこうした問題が明らかになったことで太平洋戦争がはじまる前に対処を終えることができた。その一方で安定性や強度を重視するあまり戦時中でも設計に制約が大きかったことを問題視する見方もある。例えば強度への不安から溶接の採用が遅れたことなどが挙げられる。

 昭和11(1936)年2月26日に東京で一部の陸軍部隊が政府首脳を襲撃するという2.26事件が起こった。この反乱は数日で鎮圧されるが、事件を引き起こした陸軍では粛軍として一部を除いて大将を予備役に編入することにした。バランスをとるために海軍でも3人の大将を予備役にすることになり、白羽の矢が立てられたのが山本英輔、小林こばやし躋造せいぞう、そして中村良三だった。まず艦政本部長を交代し、ついで軍事参議官を辞めて待命となり、昭和11(1936)年3月30日に予備役に編入されて57歳で現役を離れた。
 近衛内閣で準大臣格の参議に任じられ、戦時中には現役復帰して軍令部総長にというこえもあったという。

 中村良三は昭和20(1945)年3月1日に死去した。享年68、満66歳。海軍大将正三位勲一等功五級。

海軍大将 中村良三 (1878-1945)

おわりに

 中村良三も知られていない大将のひとりです。同期生の末次が悪目立ちするのでその影に隠れてしまったのでしょう。

 さて次回は誰にしましょうか。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は中村が唯一艦長をつとめた装甲巡洋艦春日)

附録(履歴)

明11(1878). 7.26 生
明32(1899).12.16 海軍少尉候補生 金剛乗組
明33(1900). 8.10 敷島乗組
明34(1901). 1.18 海軍少尉
明34(1901). 3. 8 横須賀海兵団附
明34(1901). 5. 9 敷島乗組
明34(1901). 8.30 比叡乗組
明35(1902). 9.10 磐手乗組
明35(1902).10. 6 海軍中尉
明36(1903). 7. 7 扶桑分隊長心得
明37(1904). 7.13 海軍大尉 扶桑分隊長
明38(1905). 1.27 明石航海長
明38(1905).12.12 明石航海長兼分隊長
明38(1905).12.29 香取回航委員(英国出張被仰付)
明39(1906). 1.15 香取分隊長
明39(1906). 8.15 帰朝
明39(1906). 9.28 海軍大学校乙種学生
明40(1907). 4.23 海軍砲術学校高等科学生
明40(1907). 9.28 海軍砲術学校教官兼分隊長
明40(1907).10. 4 海軍砲術学校教官
明41(1908). 1.15 阿蘇砲術長兼分隊長
明41(1908). 4.20 八雲砲術長
明41(1908). 5.15 八雲砲術長兼分隊長
明41(1908). 9.25 八雲砲術長
明42(1909). 2.20 八雲砲術長兼分隊長
明42(1909). 5.25 海軍大学校甲種学生
明42(1909). 7.11 海軍少佐
明43(1910).12. 1 筑波砲術長
明44(1911). 5.22 海軍軍令部出仕
明44(1911). 9.13 海軍軍令部参謀
大 2(1913). 4. 1 第二艦隊参謀
大 3(1914).10. 1 第一艦隊参謀
大 3(1914).12. 1 海軍中佐 第四戦隊参謀
大 4(1915). 2. 1 海軍軍令部参謀
大 4(1915).11. 1 海軍軍令部参謀/聯合艦隊参謀
大 4(1915).12.13 海軍軍令部参謀(第一班第一課長)/海軍大学校教官/参謀本部部員
大 4(1915).12.23 海軍軍令部参謀(第一班第一課長)/参謀本部部員
大 6(1917).12. 1 英国駐在被仰付
大 7(1918).12. 1 海軍大佐
大 8(1919). 7. 3 帰朝被仰付
大 8(1919). 9.29 海軍軍令部出仕
大 8(1919).11.20 海軍大学校教官/海軍軍令部参謀
大 9(1920). 8.13 海軍大学校教官
大 9(1920).12. 1 海軍大学校教頭兼教官
大11(1922). 5.25 海軍軍令部出仕
大11(1922). 8.25 春日艦長
大11(1922).12. 1 第二艦隊参謀長
大12(1923).11. 6 第一水雷戦隊司令官心得
大12(1923).12. 1 海軍少将 第一水雷戦隊司令官
大13(1924).12. 1 海軍軍令部参謀(第三班長)
大15(1926).12. 1 海軍軍令部出仕
大15(1926).12.10 海軍大学校長
昭 2(1927).12. 1 海軍中将
昭 4(1929).11.30 海軍軍令部出仕
昭 5(1930).12. 1 第二艦隊司令長官
昭 6(1931).12. 1 佐世保鎮守府司令長官
昭 7(1932).12. 1 呉鎮守府司令長官
昭 9(1934). 3. 1 海軍大将
昭 9(1934). 5.10 軍事参議官/海軍艦政本部長
昭11(1936). 3.16 軍事参議官
昭11(1936). 3.28 待命被仰付
昭11(1936). 3.30 予備役被仰付
昭15(1940). 2.13 内閣参議
昭15(1940). 8. 3 免内閣参議
昭20(1945). 3. 1 死去

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