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支那方面艦隊司令長官伝 (1)有馬良橘

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。初回は有馬良橘です。
 総説の記事は以下になります。

侍従武官

 有馬ありま良橘りょうきつは文久元(1861)年11月15日に御三家である紀伊和歌山藩の藩医の家に生まれた。戊辰戦争で父は医師として幕府側で従軍したため、維新後は朝敵扱いをされて苦労したという。有馬が海軍将校をめざして築地の海軍兵学校に入校したのはすでに20歳を過ぎた頃だった。のちの時代であれば受験資格がない年齢である。卒業を控えてコルベット筑波つくばに乗り組み、明治19(1886)年2月9日に品川を出航してオーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイを巡って帰国したには11月13日だった。遠洋航海を終えてまもない12月7日に兵学校を卒業して海軍少尉候補生を命じられる。第12期生19名のうち卒業成績は16位と後ろのほうだった。巡洋艦高千穂たかちほに配属され、1年ほどのちの明治21(1888)年1月13日に海軍少尉に任官した。高千穂分隊士、砲艦天城あまぎ航海士を経験して巡洋艦千代田ちよだの受領のためイギリスに派遣された。翌年帰国すると航海長を命じられ明治24(1891)年12月14日に海軍大尉(当時海軍中尉の階級は存在しない)に進級した。イギリス以来の千代田での勤務は4年に及んだ。
 巡洋艦浪速なにわ航海長で日清戦争を迎える。浪速は第一遊撃隊に属し、東郷とうごう平八郎へいはちろう艦長の下で豊島海戦、黄海海戦、旅順攻略、威海衛攻略を戦った。台湾平定が一段落すると横須賀鎮守府附兼参謀となり、その翌年からは侍従武官として宮中で明治天皇の側近く仕えることになる。侍従武官は日清戦争中に大本営で軍部と天皇の連絡の必要性から臨時に設けられたものが戦後になって制度化されたものである。侍従武官の在職期間は概して長く、有馬の3年余という任期は短い部類になる。この間、明治30(1897)年12月1日には海軍少佐に、明治32(1899)年9月29日に海軍中佐に進級した。
 文字通りの宮仕えから解放された有馬はいったん常備艦隊参謀に発令されたが二度目のイギリス派遣の準備だったようだ。翌年には戦艦三笠みかさの受領のためイギリスに出張する。航海の責任者である航海長として三笠を無事に日本へ届けた。さらに巡洋艦常磐ときわ副長に移ったが、日露戦争を目前にして東郷が常備艦隊司令長官にほじせられると有馬は参謀に起用された。

聯合艦隊参謀

 日露戦争初期の有馬は旅順港閉塞作戦の発案者で実行者としてしられる。日本海軍の当初の計画では旅順のロシア太平洋艦隊主力は開戦早々に奇襲で無力化するとされていたが、結果的にはそれに失敗した。そこで有馬は老朽貨物船を狭い旅順港口に沈めて港口をふさぎロシア艦隊を封じ込める閉塞作戦を考案した。危険なこの作戦に有馬は自ら総指揮官として参加した。第一回作戦では犠牲は出さなかったが目的は達成できなかった。第二回作戦では広瀬ひろせ武夫たけお少佐などの犠牲をはじめて出してやはり失敗した。有馬はなおも第三回作戦を計画したが、実施前に聯合艦隊参謀をはずされて東京の大本営附を命じられた。東郷長官はかねて「決死隊に参加するのは一人につき一度限り」と指示していたが、有馬は発案者の責任として二度とも指揮官として参加した。しかし同様に無理を言って二度の作戦に参加した広瀬少佐が戦死したためこの原則の徹底がはかられたらしい。有馬は戦地から引き離され、横須賀で建造中の巡洋艦音羽おとわを預けられた。
 第三回閉塞作戦は有馬が艦隊を去ったあとの5月に実施されたが多数の犠牲者を出して失敗し、このあと二度と試みられることはなかった。明治37(1904)年7月13日に有馬は海軍大佐に進級し、9月6日に音羽は就役したが、黄海海戦はすでに終わっていた。日本海海戦では音羽は第一艦隊第三戦隊に属した。その後、第二艦隊の巡洋艦笠置かさぎ艦長に転じた。
 戦後はまず対馬の竹敷要港部参謀長をつとめた。司令官は瓜生うりゅう外吉そときちである。翌年は装甲巡洋艦磐手いわて艦長、さらに翌年は第二艦隊参謀長に補せられた。第二艦隊の司令長官ははじめ伊集院いじゅういん五郎ごろう、ついで出羽でわ重遠しげとおだった。明治42(1909)年度から2年間は横須賀の海軍砲術学校長つとめた。校長在職中の明治42(1909)年12月1日に海軍少将に進級した。

第三艦隊司令長官

 明治44(1911)年度から2年間は海軍軍令部で作戦を担当する第一班長を命じられた。上司の部長は伊集院五郎、次長は藤井ふじい較一こういちになる。出羽重遠長官の下で第一艦隊司令官をつとめたが長年患っていた胃腸病が悪化して待命となる。しかし実役停年は足りていたようで、直後の大正2(1913)年12月1日に行われた定期異動では無事に海軍中将に進級している。自宅静養で小康を得ると海軍将官会議議員として復帰し、ちょうど発覚したジーメンス事件の査問委員を命じられることになる。委員長は軍事参議官出羽重遠大将だった。まもなく海軍兵学校長に補せられて江田島暮らしとなる。俗世を離れた別天地の江田島での生活は病気によかったらしく有馬は健康を回復した。有馬校長の時代に在校した生徒は第42期生から47期生に該当する。
 大正5(1916)年度末に海軍兵学校長の上司にあたる海軍教育本部長に補せられるが、短期間で中国方面の警備を担当する第三艦隊司令長官に親補された。この日はアメリカが参戦した日でもある。ロシアでは二月革命で帝政が崩壊しており、極東でもロシア沿岸地域の治安が悪化していた。日本海軍もロシア方面に警備部隊を派遣することになり、第三艦隊から兵力が派出された。有馬長官ははじめ舞鶴に待機していたがやがて自らロシア沿海州沿岸の警備を指揮した。この間、指揮下部隊への命令を海軍軍令部が長官である自分を通さずに直接伝えていることについて、抗議する一幕があった。このとき有馬は「長官として責任がもてないから辞職する」とまで言ったという。
 大正7(1918)年度末に第三艦隊をおりて海軍将官会議議員に補せられる。第一次大戦は休戦したがロシア情勢は十月革命のあとますます混迷していた。有馬はそうした現地をあとに帰京する。海軍将官会議議員は名だけあって責任がなく、この地位に1年間留め置かれている間の大正8(1919)年11月25日に海軍大将に親任される。大正9(1920)年度はふたたび海軍教育本部長に補せられた。海軍省の外局である海軍教育本部の本部長は教育一般を統括する重要な地位ではあるが親補職ではなく、海軍大将で補職されるのは珍しい。1年だけつとめて海軍将官会議議員の専任に戻ったが大正10(1921)年8月に待命となり、大正11(1922)年4月1日に予備役に編入されて現役を離れた。

 大正15(1926)年11月15日に65歳に達して後備役に編入され、昭和6(1931)年11月15日に退役となった。退役の直前になる昭和6(1931)年9月に明治神宮宮司に任ぜられた。戦前の日本では神社の神職は無給の官吏扱いである。同じ年の12月26日には枢密顧問官にも任じられた。80歳を越えた昭和18(1943)年に明治神宮宮司を退任している。

 有馬良橘は昭和19(1944)年5月2日死去した。満69歳。海軍大将正二位勲一等功三級。

海軍大将 有馬良橘 (1861-1944)

 養子の有馬ゆたかは海軍中将。

おわり

 有馬良橘は旅順閉塞作戦で有名ではありますが、最終的には海軍大将に上ったもののそのわりに目立った重要職務はなく、主に教育畑を歩いてきました。

 次回は黒井悌次郎です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は有馬が艦長をつとめた巡洋艦音羽)

附録(履歴)

文久元(1861).11.15 生
明15(1882). 9.30 海軍兵学校入校
明18(1885).10.24 筑波乗組
明19(1886).12. 7 海軍少尉候補生 高千穂乗組
明21(1888). 1.13 海軍少尉 高千穂分隊士
明21(1888). 4. 9 天城分隊士兼航海士
明22(1889). 6.25 天城航海長心得
明23(1890). 1.10 千代田航海士兼回航委員(英国出張)
明24(1891). 4.11 帰着
明24(1891). 4.21 千代田航海長心得
明24(1891).12.14 海軍大尉 千代田航海長
明27(1894). 4.23 浪速航海長兼分隊長
明28(1895).11.16 横須賀鎮守府附兼参謀
明29(1896).10.24 侍従武官
明30(1897).12. 1 海軍少佐
明32(1899). 9.29 海軍中佐
明32(1899).12.21 常備艦隊参謀
明33(1900). 5.15 三笠回航委員(英国出張)
明34(1901). 5. 1 三笠航海長
明35(1902). 5.18 帰着
明36(1903). 2. 7 待命被仰付
明36(1903). 4.22 常磐副長
明36(1903).10.27 常備艦隊参謀
明36(1903).12.28 第一艦隊参謀
明37(1904). 4.18 戦時大本営附
明37(1904). 5. 7 横須賀海軍工廠艤装員
明37(1904). 5.24 音羽艦長
明37(1904). 7.13 海軍大佐
明38(1905). 6.14 笠置艦長
明38(1905).12.12 竹敷要港部参謀長
明39(1906).11.22 磐手艦長
明40(1907).12.17 第二艦隊参謀長
明41(1908).11.20 海軍砲術学校長
明42(1909).12. 1 海軍少将
明43(1910).12. 1 海軍軍令部参謀(第一班長)
大元(1912).12. 1 第一艦隊司令官
大 2(1913).11.19 待命被仰付
大 2(1913).12. 1 海軍中将
大 3(1914). 1.28 海軍将官会議議員
大 3(1914). 3.25 海軍兵学校長
大 5(1916).12. 1 海軍教育本部長/海軍将官会議議員
大 6(1917). 4. 6 第三艦隊司令長官
大 7(1918).12. 1 海軍将官会議議員
大 8(1919).11.25 海軍大将
大 8(1919).12. 1 海軍教育本部長/海軍将官会議議員
大 9(1920).12. 1 海軍将官会議議員
大10(1921). 8. 1 待命被仰付
大11(1922). 4. 1 予備役被仰付
大15(1926).11.15 後備役被仰付
昭 6(1931). 9.14 明治神宮宮司
昭 6(1931).11.15 退役
昭 6(1931).12.26 枢密顧問官
昭18(1943). 8.27 免明治神宮宮司
昭19(1944). 5. 2 死去

※明治5年までは旧暦

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