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軍令部総長伝(3) 島村速雄

 歴代の海軍軍令部長・軍令部総長をとりあげます。今回は島村速雄です。
 総説と前回の記事は以下になります。

常備艦隊参謀

 島村しまむら速雄はやおは安政5(1858)年9月20日に土佐藩の郷士の家計に生まれた。幼名は干支にちなんで午吉うまきち。父を早くに亡くし、生活が苦しいなかで学費が不要な海軍兵学寮を選んだ。30名からなる第7期生はのちに4人の海軍大将(うち二人は元帥)を出す希有なクラスだが、その中で島村は入寮から卒業まで首席を通した。卒業前の遠洋航海はコルベット筑波でおこなわれた。筑波つくば艦長は相浦あいのうら紀道のりみち中佐である。明治13(1880)年4月29日に品川を出航、カナダ西海岸のバンクーバーとエスカイモルト、サンフランシスコを訪問し、ハワイに寄港して帰国したのは10月だった。12月17日に兵学校を卒業して海軍少尉補を命じられた。いったんはフリゲート扶桑ふそうに配属されたがその後もしばらく海軍兵学校で教育を受ける。同期の例えば加藤かとう友三郎ともざぶろうの場合、やはり兵学校に通学していた時期はあるが島村ほど長くない。兵学校はじまって以来の秀才といわれた島村に期待するところがあったのだろうか。明治16(1883)年11月2日に海軍少尉に任官した。航海練習艦として使用されていたコルベット浅間あさまに乗り組み、明治18(1885)年6月20日に海軍中尉に進級した。同じ浅間で教官兼分隊長をつとめた。
 明治19(1886)年に参謀本部海軍部に配属されたのが、軍令機関で島村が働く最初になる。明治19(1886)年7月13日に海軍大尉に進級しているが、この日に海軍中尉の階級が廃止されて海軍大尉に統合されたことにともなうものである。この前後は特に軍令機関で組織の変更が激しく、参謀本部海軍部は海軍参謀本部に戒厳された。それからまもなく島村はイギリスに留学を命じられる。この時期のイギリス海軍ではのちに事実上の標準となるロイアル・ソブリン級戦艦の計画が進行中で、さらに魚雷の運用が模索されている過渡期だった。1888年から1890年まで、イギリス海軍は夏ごとに実戦を想定した大規模な演習をおこなっており、その結果は以後の軍艦設計や作戦立案に利用された。そうした状況は島村ももちろん聞いてはいただろうが、演習を直接見聞できたわけではない。島村は座学の修了後に地中海艦隊に所属する最新の中央砲郭艦エジンバラに乗り組んだ。帰国するとまた海軍参謀本部に配属された。このあとの島村の履歴はほとんど参謀と官庁での勤務となり、軍艦勤務はまれである。
 その数少ない例が巡洋艦高雄たかおの砲術長である。1年弱つとめて常備艦隊参謀に移った。まもなく長官が伊東いとう祐亨すけゆきにかわる。艦隊司令部に配属される参謀の階級と人数は定員で規定されており、例えば大尉は何名、少佐が何名という具合だが、はじめ島村は大尉参謀として勤務していた。階級どおりで当然なのだが、やがて大尉でありながら少佐参謀の役割を任されるようになる。日清戦争がはじまると常備艦隊司令部は聯合艦隊に看板をかけ変える。島村参謀は、伊東長官や鮫島さめじま員規かずのり参謀長を支える立場に置かれる。しかし特に鮫島参謀長は仕事の多くを島村に丸投げしてすませており、島村はかなり苦労させられた。黄海海戦ではどうにか清国艦隊を撃退した。旅順攻略がすんだ明治27(1894)年12月9日に海軍少佐に進級し、職務の内容に階級が追い付いた。なおほぼ同時に鮫島参謀長が転出して出羽でわ重遠しげとおに交代している。威海衛が陥落して清国艦隊が無力化され、台湾海峡の澎湖諸島も占領してあとは新領土となった台湾本島の平定にかかろうというタイミングで司令部の顔ぶれが交代する。長官の伊東は海軍軍令部長に移り、島村も海軍軍令部で作戦を担当する第一局ではたらくことになる。明治30(1897)年にはイタリア駐在武官を命じられる。イタリアは当時フランスを主敵とみて特徴のある軍艦を製造しており、特に装甲巡洋艦は注目されていたが、島村の駐在は1年ほどで終わった。その間の明治30(1897)年12月1日には復活した海軍中佐に進級している。

聯合艦隊参謀長

 帰国すると海軍軍令部で軍備計画を担当する第二局の局長に補せられる。1年半つとめて明治32(1899)年9月29日に海軍大佐に進級すると巡洋艦須磨すま艦長に補され、北清事変に派遣されている。さらに常備艦隊参謀長に移る。この勤務は半年ほどの短いものだったが、上司である司令長官は東郷とうごう平八郎へいはちろうだった。海軍教育本部で兵科将校の一般教育を担当する第一部長をつとめて、ふたたび艦隊へ戦艦初瀬はつせ艦長として出た。この艦長勤務は島村にしては珍しく比較的長く続いたが、いよいよ日露戦争がまぢかに迫って東郷平八郎が常備艦隊司令長官にあてられると、島村が参謀長に起用された。かつての上司部下の関係が復活したことになる。常備艦隊はやがて聯合艦隊に改編された。
 いよいよ日露戦争がはじまり聯合艦隊主力は主に黄海方面でロシア旅順艦隊と対決する。緒戦、朝鮮半島方面でのロシア小部隊は早期に排除されたが予定通りに作戦が進行したのはそれぐらいで、開戦早々に旅順付近にある艦隊に昼夜奇襲をかけて早期に撃滅するという目論見だったが損害は与えられたものの撃滅にはほど遠くロシア艦隊は守りが堅い旅順に籠ってしまった。ならばと老朽貨物船を沈めて港口をふさぐ閉塞作戦を実施したがこれも成功しなかった。ロシア艦隊は旅順要塞の援護の範囲内で自由に行動できた。聯合艦隊はやむを得ず旅順沖に戦力を張り付けて封鎖する。予期していなかった長い苦しい封鎖のはじまりである。基地に籠る敵を外から封鎖するというのは、むしろ封鎖する側に負担が大きい。機雷は有効だったが敵にも味方にも損害が出る痛み分けの結果になった。海上からの攻略は断念され、陸軍部隊で陸上から要塞を攻略するしかなく、第三軍が編成された。第三軍による攻撃も遅々として進まなかったが、圧力を感じたロシア艦隊は脱出を試みる。旅順に逃げ込まれることを恐れた聯合艦隊はまず艦隊を外洋に誘導したがそれはロシア側の思うつぼだった。ようやく追い付いてロシア艦隊の大半を旅順に押し戻すことには成功したが状況はほとんど改善しなかった。ほとんど1年にも及ぶ想定していなかった封鎖を強いられ、ようやく第三軍が港内を見渡せる観測地点を確保し、観測射撃で港内のロシア艦隊が無力化されると聯合艦隊はバルチック艦隊に備えることができるようになる。封鎖が継続中の明治37(1904)年6月6日に海軍少将に進級しているが、旅順陥落をうけてひと段落した艦隊では人事異動がおこなわれた。島村は第二艦隊司令官に転出し、同期生の加藤友三郎が後任の参謀長にあてられる。結果として参謀長の島村が戦争前半の不首尾の責任を負わされる形になった。
 第二艦隊司令官に移った島村は第二戦隊を預かったが上村かみむら彦之丞ひこのじょう長官が座乗しており実際には副司令官のような位置に置かれた。海戦前、司令部の会議ではバルチック艦隊の進路について発言するなど存在感を示したが、実戦にあたって手腕を発揮する余地はあっただろうか。いずれにせよ日本海海戦は大勝に終わり、日本優位で戦争は終結する。戦時体制が解かれるわずか1週間前に第四艦隊司令官に移ったのは、すでに平時体制で練習艦隊に改編されることが決まっていたのだろう。海軍兵学校を卒業した候補生の実習となる遠洋航海は、日露戦争後に練習艦隊という正式な専任組織でおこなわれるようになる。すでに日露戦争前の明治36(1903)年には常備艦隊司令官上村彦之丞が率いる形でテストケースが実施された。戦争で2年間中断したが終戦で再興され第33期生が正式な練習艦隊によるはじめての遠洋航海が清国沿岸、東南アジア、オーストラリアを巡る形でおこなわれた。使用されたのは三景艦の松島まつしま橋立はしだて厳島いつくしまである。

 遠洋航海を終えると海軍兵学校長に移った。候補生を受け入れる側から送り出す側にまわったことになる。島村が校長をつとめていた間に在校した生徒は第35期から第39期生にあたる。明治41(1908)年8月28日に海軍中将に進級し、江田島から東京の海軍大学校長に転じる。長く参謀勤務を続けてきた島村には居心地がよかっただろう。

海軍軍令部長

 明治43(1910)、44(1911)両年度は第二艦隊司令長官をつとめることになる。はじめての親補職である。同じ2年間、ペアを組む第一艦隊司令長官をつとめたのは日本海海戦での上司上村彦之丞だった。日露戦争後のこの時期は財政的にも厳しく両年度とも第二艦隊所属艦は4隻だけだった。明治43年度は八雲やくも沖島おきのしま見島みしまよど、翌年度は春日かすが日進にっしん和泉いずみ千早ちはやというのがその顔ぶれである。戦力としてはかなり寂しい。艦隊をおりたあとは佐世保鎮守府司令長官に親補された。普通に考えれば十分出世コースなのだが、かつて海軍きっての秀才として将来を嘱望された身にしては華々しさに欠けた。

 大正3(1914)年春の人事で海軍教育本部長として東京に呼び戻される。教育本部は海軍省の外局で、本部長は親補職ではなく艦隊司令長官や鎮守府司令長官と比べると格下になる。教育関係の配置を歴任してきた島村にふさわしいともいえるが、東京の海軍省で勤務するというのが大きかった。この年のはじめにジーメンス事件が発覚しており、ときの山本やまもと権兵衛ごんべえ内閣は厳しい批判に直面していた。土佐出身の島村は薩摩閥とは一線を画しており、今後想定される人事異動にあてる駒として用意されたのかもしれない。
 山本内閣はすでに死に体で延命は無理とみられていた。それでも辞職するには大義名分が要る。軍備拡張を含む予算案が貴族院で否決され、通過させた衆議院との協議会も不調に終わり予算案が不成立に終わると山本内閣はついに総辞職した。加藤友三郎が海軍大臣を断って清浦きようら圭吾けいごの組閣が失敗すると、あとを継いだ大隈おおくま重信しげのぶが選んだのは非主流派の八代やしろ六郎ろくろうだった。八代大臣は薩摩出身の伊集院いじゅういん五郎ごろうを海軍軍令部長から更迭し、土佐の島村速雄を据えた。ちょうど上京したところでうごかしやすかったということもあったようだ。かつて軍令部で名を轟かせた島村だが、最後に軍令部で勤務してから15年になり、必ずしも内部事情に通じているわけではない。
 助け船は外から来た。数ヵ月も経たないうちにヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、日本もドイツなどに宣戦布告した。日本はまず極東に位置するドイツ植民地を占領する。戦時大本営の設置が見送られたため、作戦は島村の海軍軍令部が立案し、天皇の承認を得たうえで島村海軍軍令部長から該当する部隊指揮官に伝達される。その責任を負うのも島村である。極東におけるドイツ最大の根拠地である青島には第二艦隊が派遣され、イギリス海軍や日本陸軍と協同して作戦を進めた。犠牲も出たし時間もかかったが占領自体は大過なく進んで成功する。島村は大いに面目を施す。翌年には八代大臣が退任して加藤友三郎に変わった。大臣と軍令部長が同期生で並び、互いにやりやすかったことは間違いないだろう。大正4(1915)年8月28日にはそろって海軍大将に親任された。その翌年には対ドイツ作戦の功績で男爵を授けられて華族に列せられる。
 大臣の加藤が長期政権となり、結果として海軍軍令部長の島村の在職も長くなった。ヨーロッパで両陣営が激戦を続ける中、日本では戦後を睨んで八八艦隊が計画されていた。莫大な予算を必要とする八八艦隊案をいきなり提出しても受け入れられる見込みがないため、まず八四艦隊、ついで八六艦隊と段階を踏んで最後に本命の八八艦隊を持ち出した。そのために加藤と島村は長期政権を必要としたのだ。島村の任期は最終的に6年半に及ぶ。
 第一次大戦も後半に入ると追い詰められたドイツは無制限潜水艦戦を宣言する。連合軍側の準備が整うまでの時間を稼ぐため、極東で激しい戦闘に巻き込まれず戦力に余裕があるとみなされた日本の協力が求められた。本格的な参戦には終始否定的だった日本だがゼロ回答というわけにも行かず、ある程度の戦力を派出することになる。作戦を指導するのは島村である。結局、島村は第一次大戦が始まる直前に海軍軍令部長に親補され、第一次大戦が終わるのを見届けて山下源太郎に譲り、軍事参議官に退いた。

 軍事参議官として島村はあまり活発に活動しなかった。すでに体調を崩しておりもっばら静養につとめていた。

 島村速雄は脳梗塞のため大正12(1923)年1月8日に死去。享年66、満64歳。元帥の称号を贈られた。元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵。

元帥海軍大将 男爵 島村速雄 (1858-1923)

おわりに

 島村速雄は作戦家として名前が知られていますが、聯合艦隊司令長官をつとめないまま海軍軍令部長をつとめ、最後は元帥の称号を得ました。これがかなり珍しいということは今回の連載ではじめて認識しました。

 島村以降の軍令部総長は山下源太郎、鈴木貫太郎、加藤寛治、谷口尚真、伏見宮博恭王、永野修身、嶋田繁太郎、及川古志郎、豊田副武ですがいずれもすでに記事があるのでそちらを参照してください。すべてリンクを貼ると膨大になるので貼りません。「#軍令部総長」タグで探してみてください。こんなタグをつけてるのはわたしくらいでしょう。

 さて、海軍大臣、聯合艦隊司令長官、皇族、軍令部総長と続けてきた軍人伝も島村速雄でひと段落です。これで元帥は全員網羅したし、77名の海軍大将の過半数もカバーしたと思います。海軍大将はできるだけカバーしたいと思いますが、単純に大将を順番に取り上げるのではなく別の切り口を探しているところです。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は留学中に乗艦したイギリス中央砲郭艦エジンバラ)

付録(履歴)

安政 5(1858). 9.20 生
明 7(1874).10. 5 海軍兵学寮寮入寮
明12(1879). 9.10 筑波乗組
明13(1880).12.17 海軍少尉補 海軍兵学校学術課程卒
明13(1880).12.24 海軍兵学校通学
明14(1881). 4.13 扶桑乗組
明14(1881).11.19 海軍高等学科課程卒
明16(1883).11. 2 海軍少尉
明17(1884). 1.29 浅間乗組
明18(1885). 6.20 海軍中尉
明18(1885).12.25 浅間教官兼分隊長
明19(1886). 4.12 参謀本部海軍部第一局課員
明19(1886). 7.13 海軍大尉
明21(1888). 5.14 海軍参謀本部出仕
明21(1888). 6. 7 英国留学被仰付
明22(1889). 8. 2 英国出張被仰付
明23(1890). 3. 6 英国軍艦乗組
明24(1891). 2.10 海軍参謀本部出仕
明24(1891). 4.21 海軍参謀本部第一課課員
明24(1891). 6.26 海軍省第一局第二課次長
明25(1892). 5.23 高雄分隊長兼砲術長
明26(1893). 3.13 常備艦隊参謀
明26(1893). 6. 7 常備艦隊少佐参謀心得
明27(1894).12. 9 海軍少佐 常備艦隊参謀
明28(1895). 5.17 海軍軍令部第一局局員
明29(1896). 1.13 海軍軍令部第一局局員/海軍大学校教官
明30(1897). 4.30 伊国駐在帝国公使館附海軍武官
明30(1897).12. 1 海軍中佐
明30(1897).12.15 帰朝被仰付
明31(1898). 3. 4 海軍軍令部第二局長心得
明31(1898).11.10 海軍軍令部第二局長心得兼第一局長心得
明31(1898).12. 3 海軍軍令部第二局長心得
明32(1899). 9.29 海軍大佐 海軍軍令部第二局長
明32(1899).10. 7 須磨艦長
明33(1900). 7. 4 常備艦隊参謀長
明33(1900).12. 6 海軍教育本部第一部長
明34(1901). 1.18 海軍教育本部第一部長/海軍大学校教官
明35(1902). 7.18 初瀬艦長
明36(1903).10.27 常備艦隊参謀長
明36(1903).12.28 第一艦隊参謀長/聯合艦隊参謀長
明37(1904). 6. 6 海軍少将
明38(1905). 1.12 第二艦隊司令官(第二戦隊)
明38(1905).12.12 第四艦隊司令官
明38(1905).12.20 練習艦隊司令官
明39(1906). 4. 1 功二級金鵄勲章
明39(1906).11.19 海軍兵学校長兼教頭
明39(1906).12.24 海軍兵学校長
明41(1908). 8.28 海軍中将 海軍大学校長/海軍将官会議議員
明42(1909).12. 1 第二艦隊司令長官
明44(1911).12. 1 佐世保鎮守府司令長官
大 3(1914). 3.25 海軍教育本部長/海軍将官会議議員
大 3(1914). 4.22 海軍軍令部長/海軍将官会議議員
大 4(1915). 8.28 海軍大将
大 5(1916). 7.14 男爵
大 9(1920).12. 1 軍事参議官
大12(1923). 1. 8 元帥 死去

※明治5年までは旧暦


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