あしたのために
前回の記事で、自己開示の必要性について書きました。前回の記事はこちら↓↓ https://note.com/adlibler/n/nefe72e4da682
いくら何かを伝えようとしても、何かを始めようとしても、自分がどんな人間かを知ってもらえないと何も伝わらないし、少しでも魅力を感じてもらえなければ興味なんて1ミリも持ってもらえない。
なので今回は僕の自己開示、つまり現時点での最新の自分、どんな変遷を辿って今ここにいるのか。そんな自己紹介を書きたいと思います。
僕は、1972年 に生まれた。
1972年といえば、日本が戦争に負けてからまだ27年しか経ってない。戦争なんて大昔のことのように思えるけれど、でも自分が生まれるたった27年前にはまだ戦争してたって考えると、急に現実感が湧いて何だかゾワゾワしてしまう。
沖縄が日本に返還された年でもありますね。
一番古い記憶は、多摩川で父と一緒にザリガニ採りをした記憶だろうか。たぶん幼稚園に入る前。
多摩川には、小学生の3〜4年生くらいまで父によく連れて行ってもらっていた気がする。
みんなと一緒、が苦手だった少年時代
前にも何処かに書いたけれど、僕は幼稚園の入園式の日のことを今でも覚えていて
入園式が始まる前なのか終わった後なのかは忘れたけれど、クラスの前で全員集まった時に先生が
「みんなでおトイレ行きましょう」とか言って他のみんなは「はーい」とか言っちゃって、全員でトイレに行った。
でも僕は「全然オシッコしたくないし、何で行かなきゃいけないんだ」とか思って頑なに自分だけトイレに行かなかった記憶がある。今思えば、その時から既に「みんなと一緒」に何かをすることや「みんなと同じ」にカテゴライズされることが、かなり苦手だったのだろうと思う。
日本史に授業で感じた違和感
高校時代、日本史の授業で先生が男子に向けて質問をした。
「日本がもし徴兵制になって戦争に呼ばれたら、君たちは戦争に行きますか?」と。
「行く」と手を挙げたのは一人だけ。彼はサッカー部のキャプテンだった。
「行かない」と手を挙げたのは、僕一人だけだった。
残りのその他大勢は、手も挙げず意見も言わず、ただ、手を挙げた僕らふたりを観てニヤニヤしているだけ。
「こいつら何カッコつけて手を挙げてんの」と言わんばかりの、ニヤけてクズで中途半端な表情でこちらを見ていた。
この時、僕はニヤニヤしている奴らを「卑怯者たち」だと思ったし「こいつらとは仲良くできない」と心に決めた。
この先クラスで一人になっても全然いいやと腹を括った瞬間でもあった。
あいつら元気かなぁ。どんな大人になってるのかな。自分の子どもに、どんな教育してるんだろうか。
まぁどうでもいい。
とにかく、周りとうまくやれない、理由もなく同調するのが苦手、群れるのがとことん嫌いというパーソナリティーはその後もずっと変わらなかったし、大人になっても、おじさんになった今でもまるで変わっていない。
むしろどんどん進行してかなりこじらせてしまっている。ハタから見たら相当に面倒くさい人間と思われてきただろうなぁとは、自分でも容易に想像がついてしまうのだ。好きな言葉は「和して同せず同じて和せず」OMG!
だからこそ尚更、こんな自分の周りにいてくれたり、理解してくれたり、仲良くしてくれたりする人って本当に有り難い存在なだぁと、口には出さずとも、いつも本当にそう思ってるんです。
父もまさにそういう人だったから、この性分は間違いなく、圧倒的に父譲りのものなんだろう。
あしたのジョー、プラティニ
小学生高学年の頃、1〜20巻まで何回も読み返した『あしたのジョー』
ジョーの生き様に惚れ、男はこうあるべきだと学んだ。擦り切れるまで読んだ。
生き様、戦うこと、本当の強さ、友情、優しさ。
ジョーのようになりたい、って本気で思って、本気でジョーに憧れた。今でもたまに読み返す永遠のバイブルだし、永遠の憧れだ。
1985年12月に行われたトヨタカップで「将軍」ミシェル・プラティニ のプレーを初めて観て、完全に虜になった。
プラティニの優雅なプレー、寸分狂わぬスルーパスに僕の心はあっという間に持っていかれた。
プラティニに出会った中1の冬。俺の人生、何かサッカーに関わっていきたいと思った最初の日だった。
初めて虜になった選手がプラティニだったことは、きっとその後のコーチ人生にも相当な影響を与えてくれたと思う。
僕がコーチしたチーム、次第になぜかスルーパスが特徴のチームになっていくことが多かったもん。
プラティニのおかげでサッカーにのめり込みながらも、その一方で『BOØWY』にも夢中になっていた。
伝説のロックバンド・BOØWY
氷室京介、布袋寅泰、高橋まこと、松井常松。曲だけでなく、この4人が魅せるカッコよさに僕は完全に夢中になって、ハマって、氷室さんが描く詞に心酔し、影響され、その影響は人生観にも及んでますます僕はトガっていった。
布袋さんの影響でギターも始めた。まだヘタクソのままだけど。
BOØWYは人気絶頂だった87年のクリスマスイブに突然解散してしまった。最後88年4月、完成したばかりの東京ドームで「ファンへの贈り物」として2日間開催された「LAST GIGS」は、チケットが10分で売り切れ、文京区の電話回線がパンクしてしまったとニュースにもなったほどだった。
BOØWYの人気が加速し始めたのが85年。そして一気に爆発し、駆け抜けて、人気絶頂となりそして突然解散してしまったのが87年。
ちょうど僕が中1〜中3の年月とぶつかっていたこともあって、この多感な時期に出会ってしまったからこそ、今でも1ミリも色褪せることなく、僕の心の中でBOØWYは圧倒的な位置を占めている。
もちろんBOØWYは全員のことが大好きだけど、その中でも特に、僕は氷室さんにずっと惹かれ続けていて
僕の中で『カッコいいという言葉の基準』にあるのが、氷室京介という人だった。それは大人になった今でも変わらない。
そんな氷室さんも、2016年の春にスパっと引退してしまった。
BOØWYに、そして氷室さんに出会わなければ、僕の人生はもっと違うものになっていた。これは間違いない。氷室さん、本当にありがとうございました。
ジョーに出会い、プラティニに出会い、BOØWYに出会い、サッカーと音楽に傾倒しながら(でも全然真剣じゃなく)過ごしたジグザグな青春時代を経て
僕はいつのまにか、大人と呼ばれる年齢になってしまった。
その後、僕はアルバイト生活の合間にイタリアに行くとか遊び人風情な数年を経て、サッカーコーチのアルバイトを練馬区でする日々が始まって、そこを辞めたタイミングで、縁あって横浜で自分のクラブ『SUERTE juniors 横浜』を26歳で立ち上げことになる。
生きた証とは
そこから、あっという間の20年あまり。
その間、紆余曲折ありながらもサッカーを通じて表現してきたものは、結局自分という人間の全てが出ていたなぁと思う。
それは僕やSUERTE、また外部コーチとしてずっと関わってきた某高校や中学のサッカーを見てくれて知っている人ならば、きっと理解してくれるかなとは思うのだけど。
尊敬する岩谷さんに初めて会った時に言われた言葉が、今でも忘れられない。
「名刺なんかいらん。俺はお前が教えてる選手たちを見たいんや。選手たちを見れば、お前が本当に熱いやつなのか、口だけの男なのかがすぐわかる。選手は指導者を写す鏡なんやから」と。
ここでそれを言葉で説明するのも野暮だからやめておくけど、こんな僕に関わってくれた多くの選手たちが、今までそれを証明してくれていたと思う。だから、僕の宝はこれまでの選手たちだ。かなりカッコつけたけど、これは大袈裟でもなく本音。
そしてそれは、彼ら彼女らがこれまでに美しく表現してくれたりカッコよく魅せてくれたサッカーだけの話ではなく、むしろ本当の意味でいえば これから の話なのだと思う。
彼ら彼女らが、どんなカッコよくて素敵な大人になってくれるか。サッカーを通じて何かを得てくれていたのならば、きっとそれをこれからの人生で証明してくれるのだと思う。
自分で考え、自分で決めて、人生楽しんで、カッコいいことをカッコよく、美しいことを美しく表現して、常に弱い側に立つような強さと優しさ、そして、常に遊び心を忘れない『アドリブラー』※ として、イカした大人になってくれたら。
僕が生きた証は、これまで僕が関わった選手たちが、これからそうやって示してくれるのだと、僕は勝手に信じてます。
※ 『アドリブラー』とは、SUERTE時代からずっと使ってきた、最高に好きなキャッチフレーズです。
父のこと
でも僕は
僕が生きた証を選手たちに期待するだけでなく、小さい頃によく多摩川に連れて行ってくれていたあの父が「生きた証」を、自分の手で証明しなきゃいけないと真剣に思っている。それが今、僕の生きる理由にもなっている。
6年前の6月に亡くなった父は、芸術家だった。寡黙な人だったけれど、アロハシャツとビーサンを好み、仕事で行ったフィリピンで「現地の人に間違われてマリファナ勧められて、つい吸っちゃったよ」とか言って笑ってたのを覚えてる。
子どもの頃から絵を描くのが好きだったらしい。学生の頃から二科展にも入賞して、映画やCMの美術制作の会社に勤めて。
僕が6年生に時に借金をして独立をして、同じ美術制作の会社をつくって、それから30年、小さいながらもずっと会社を守り続けていた。そして30年目に、癌で力尽きた。
本人が一番悔しかっただろうし、無念だったと思う。
しかも僕は何一つ親孝行をしていない。感謝の言葉もたぶん伝えていない。でもこれはもう、死ぬまで取り返せない。
死んだら、向こうで会った時にちゃんと伝えたいけれど。
だから死ぬまでに僕が精一杯生きて、自由にカッコよく生きて、人のために生きて、僕自身が、芸術家だった父の「最高の作品」になりたい。
僕の生き方で、父が生きた証を残したいと本気で思ってる。今からできるせめてもの罪滅ぼしと言えば、もうそれくらいしか思い浮かばないから。
父のことは以前にも書いたのだけど、たぶん何回書いても足りないと思ってる。
6年前
父の葬儀を終えて僕ら親族が家に帰った後、斎場に俳優の近藤正臣さんが訪れてくれたと、後から聞いた。
そのずっと前に近藤正臣さんがシリーズで出演していたキンチョーのCMの美術制作を父が手掛けていた時の縁で、でもたったそれだけの縁で、それから何年も経ったのに、うちの父が亡くなったという話をどこからか聞いた近藤正臣さんは着のみ着のままで、父のために斎場に来てくれたという。その時にはもう葬儀は終わっていて、誰もいなかったのだけど。
近藤正臣さん、ありがとうございました。父もきっと喜んでます。
僕は近藤正臣さんのような、優しい人になりたい。何年経っても小さな縁を忘れないような、本当に優しい人になりたい。
父の最高傑作になるために、まずそこは外せないだろう。
まだ直接のお礼もしてないから、このコラムを書いたこのタイミングで、手紙でも出してみようかな。
あしたのために
最後に
大好きだった「あしたのジョー」から勝手にいただき、この言葉を、僕のこれからの代名詞にしちゃいます。『あしたのために』
フリーになった今、これから僕はいくつかのことを始めようと準備しています。
今までは自分のために生きてきたけど、これからは人のために生きることに決めた。誰かの「あしたのために」僕が仕事をする。それも一つの生き方なのだと、今は本気で思える。
ようやくこの境地に辿り着いた。だいぶ時間はかかったけれど。
あしたのためにプロジェクト
「あしたのために・その1」は、先日発表した『※ 専属コーチコンテンツ・君だけのコーチ』のこと。(※ 2022年現在、FOOTBALLERS という名称に改名)
悩める選手の力になりたい。少しでも「あした」を見えやすくしてあげたい。
「あしたのために・その2」「あしたのために・その3」
まで準備をしていますが、近日、その2 を発表する予定です。
そうは言いつつ、有り難いことに現場でコーチをするお話もいくつか頂いています。最近の記事にも書いたとおりこの2ヶ月で自分の身に何年分もの出来事が起き、クラブを辞めるという結末にもなり、いろんな想いに至り、そして今、この文章も書けている。
だからこその今。また現場に戻ったら、きっと今までとは相当に違うスタンスや顔で選手たちに向き合えると思うし、きっとそれは新しい自分の第一歩にもなる。そんな自分を想像して、少しワクワクしているところなんです。
以上、長くなりましたが僕の自己開示でした。
皆さん、こんな僕ですが、これからもよろしくお願いします。
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