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敗れた選手を抱きしめるレフェリー

ボクシングを観るのが好きだ。好きどころじゃない。大好きだ。
自分はサッカーコーチだが、観るだけならば間違いなくボクシングのほうが好きだし熱狂できる。

小学生のときに「あしたのジョー」に出会い、貪るように何回も何回も読んだ。自分のキャッチフレーズにもしている「あしたのために」という言葉は、もちろん「あしたのジョー」からとったものだ。
不思議と「ボクサーになりたい」とは思わなかったものの(そこまでの勇気がなかったのだと思う)ジョーのような男になりたい、ジョーのように生きたいとは強烈に思ったしそれは今でも変わらない。ジョーは永遠の憧れだ。
だがもし今からでも時を戻せるのならば、やはりボクサーになりたい。ズタボロにKOされてもいいから、リングの上で、人生を懸けて闘ってみたい。

この夏以降、自分の周りでは大きな環境変化が起こり、人生最大の人間不信を味わった。人が持つ二面性の恐ろしさを肌で感じた。ここで初めてカミングアウトするが、適応障害、抑うつ症と診断された。適応障害と診断されたのは2年ぶりで、抑うつ症とまで言われたのは生まれて初めてだった。今でも自律神経はきっと乱れたままで、たまに首の後ろが強烈に重くなる。一番やばかった時は、急に座り込み地面でひとり泣き崩れた。自分で自分がやばいと気づき「病院に行こう」と思ったのもこの時だった。

なぜそうなったかは今では言えないしきっと数年後には言える時が来るだろうけれど、打たれて沈んだままじゃ堪らないし、このまま理不尽の波に巻かれたままでは決して終わらせない、とも思ってる。今はもう、これ以上は何も言わない。

さて話は戻るけれど
そんなこともあった夏以降、もういい加減に次へ歩き始めないといけない、いろいろストップしていた自分の仕事やプロジェクトを新たな形にアップデートしてもう一度リスタートさせるんだという想いで11月を迎えることになった。

そんな、自分で勝手に「節目」と決めていた11月1日の夜。
ボクシング ライトフライ級・世界統一王座戦「京口紘人 − 寺地拳四朗」をPrime Video でTV観戦した。WBAスーパー王者の京口紘人とWBC王者の寺地拳四朗、日本人世界王者同士の統一王座戦。日本人同士の統一王者戦は10年ぶりらしい。こんなビッグマッチを地上波で放映しないなんて実にもったいない話だ。村田諒太−ゴロフキン、井上尚弥−ドネア、そして今回の京口紘人−寺地拳四朗。今年行われたこの3度のビッグマッチはいずれもボクシングの魅力が溢れる名勝負だったのに、地上波中継は全てなし。逆らえないPPV時代の波、これはもう仕方ないのかな。

普段からYouTubeチャンネルを観て親しみを感じていることもあり、自分は圧倒的に京口紘人を応援するモードで観ていた。YouTubeで伝わってくる人懐っこい人柄が好きだし、それ以上に彼のファイトスタイルが大好きだ。前回の防衛戦、超絶ドアウェーの敵地メキシコで相手を強烈にぶっ壊した彼の強さを目の当たりにしているから、今回も京口が拳四朗を圧倒して勝つもんだと、完全に信じて観ていたのだけれど。

周知の通り、試合は7RにTKOで寺地拳四朗の勝利。
自分はこの闘いをいきつけのカフェで観ていたのだが、序盤から息詰まる間合い戦の様相、しかし拳四朗が長いリーチを生かして的確なジャブを次々にヒットさせ、インファイトで潜り込みたい京口を懐に入らせない。拳四朗強い!という印象。しかし京口も時おりカウンター気味に接近してスマッシュヒットを叩き込む。一瞬も目が離せなかった。

そしてあの5Rがやってきた。拳四朗の右ストレートで京口が遂にダウン。カフェで思わず「あっ!」と声が出てしまった。何とか立ち上がったものの、拳四朗が再び凄まじいラッシュ。打たれ続ける京口、もうここまでか⋯と、そう誰もが思っただろうし自分もそう覚悟したのだけれど。
ここから、京口が生き返り大逆転のラッシュを見せる。京口はまだ死んでいなかった。さっきまでのダウンと被弾のダメージはあるだろうに、最後の火を燃え上がらせるかの如く拳四朗にパンチを浴びせ続けロープ際に追い詰める。ひょっとしたらこのままレフェリーがストップするんじゃないかと思うくらいの猛攻。

男の意地。スーパー王者の意地。日本人同士の意地。倒れてもタダでは終わらない、という京口紘人の意地。たった1ラウンドでここまでジェットコースターのように様相が逆転するラウンドもなかなか見れない。
この試合が終わった直後から、この5Rは数々のネットで早くも「伝説のラウンド」「年間最高ラウンド」と言われるようになる。

7R。しかしもう京口に力は残っていなかったのだろう。再び拳四朗の右を浴びて崩れるようにダウン。すかさず染谷レフェリーが京口を抱き抱え、拳四朗のTKO勝ちとなった。

間違いなく、今年最高の試合。ふたりのこの闘いを見逃した人は一生後悔するぞ、と思うくらいにハイレベルなおかつ魂がほとばしる、これぞボクシングという試合だった。見逃した人は一生後悔するぞとか偉そうに言いつつ、自分も直接会場で観られなかったことを一生後悔するくらいの激闘だったのだ。

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ボクシングを観るたびに、いつも思う。
パンチを浴びダウンして、カウント10で立ち上がれなかったらKO負け。これはわかりやすい。しかしこの形で結末を迎えるのは稀で、大抵は判定決着もしくは「TKO」となる。TKO⋯テクニカルノックアウト。
陣営からタオルが投げ込まれてギブアップとなるTKOと、レフェリーが試合を止めるTKO。

自分はこのTKOの瞬間が好きだ。好き、なんていうと誤解を招くかもしれないが、この瞬間はタオルを投げる陣営も試合を止めるレフェリーも「選手を守る」ために決断し、勇気を持って試合を止める。ボクシングの持つカタルシスがこのシーンには詰まっていて、自分はこのシーンを見るたびに胸が熱くなる。

まだ選手が倒れていない、しかしパンチを浴び続けてる。ここで、もう無理これ以上は危ないと判断したレフェリーは選手と選手の間に割って入り、試合を止める。間違って自分が打たれるかもしれないのを覚悟で、打たれている選手を抱きしめ、試合の終わりを宣言する。

もういい、お前はよくやったぞ。もう終わろう。
そう言っているかのように、レフェリーは打たれ続ける選手をギュッと抱きしめ守るわけです。
この瞬間が自分はたまらなく好きだ。ボクシングの魅力が、この優しいシーンに詰まってるのだと思う。

この日の激闘も、終わらせたのは染谷レフェリーの決断だった。この人は日本屈指の名レフェリーだと自分は思ってるけれど、染谷さんの決断はこの日も勇気があり、的確で、京口紘人を守ってくれた。

矢吹丈にテンプルを撃ち抜かれた力石徹が後頭部から倒れたように、京口紘人も後頭部からロープに向かって倒れようとしていた。そこを染谷レフェリーがすかさず止め、頭を打つのを守った。そして試合の終わりを宣言し、京口紘人を優しく抱きしめた。
ボクシングファンから称賛の声が上がるのも、よくわかりますよね。

ボクシングだけでなく総合格闘技などでも、もう可能性のない相手、弱った相手には一撃を加えないというモラルが存在する。そして試合が終わった後、勝った選手は敗れた選手の元へ駆け寄ってお礼を言い、まだ倒れているのならば心配して寄り添い、お互いの健闘を讃えあう。そんな文化がある。

人間同士が裸でぶつかり合うギリギリの闘い。だからこそ闘いが終わった後、そこには互いへのリスペクトと優しさが存在する。自分はそう思う。

もう倒れていたり弱っていたりする人に対し、それに乗じさらに追い討ちをかけ顔面を踏みつけるかの如くその尊厳をも踏みにじるような人間が、この世の中には多数いる。人が弱った時だけ急に強気に豹変し攻撃性を増す人間の恐ろしさと醜い部分を、自分はこれまで何度も見せられたことがある。自身の身近でも。

その反面、人が倒れ弱った時にすかさず寄り添い、助け、手を差し伸べてくれる人の優しさも自分はこれまで何度も見てきたし、実際そういう人に何度も助けられた。だからこそ、自分は後者でありたい。これは死ぬまで守っていかなきゃいけない自分に課したルールでもある。弱っている人にもパンチを打ち続け踏みつけるような醜い人間には、決してならない。

ふたりの若者が魅せてくれた極上の闘いと、染谷レフェリーの優しさとプロフェッショナルさ。
11月の始まりに、とてもいいものを見させてもらった夜だった。



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