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怠惰であることの幸福感

男を上手く逃がすこと、逃がせることに長けている人は羨ましいなってずっと思っていた。自分にはそんなの絶対に無理だし、過去の男を引きずりたくて仕方なかった。とっくに終わったことなのに、相手が自分のことをもう好きではないのだと認めたくなかったのだ。ただ過去の幸せだった気持ちに浸っているのが、なんだか生温いようで居心地が良かった。

そこに留まっていたいその感覚は、まるで週末にソファで一日中怠惰に過ごしていたいそれと同じ。全ての物を手が伸ばせる範囲に置き、必要最低限は1ミリも動きたくないっていうやつ。そして、トイレに行っても取り替えたトイレットペーパーの芯は、あえての放置したまま。月の物が来た日には、専用の紙ショーツを履いて横たわる。あの安心感と言ったら半端ない。衣類や家具を汚す必要もないし、少しでも長くトイレに赴くことを避けられる。そんな時はトイレまでの道のりも長く面倒に感じ、「行く」ではなく「赴く」の境地に達してしまう。

お風呂掃除をする時はブラシで磨くのも面倒だし、リンレイのウルトラハードクリーナーの泡で漬け置きするだけ。LUSHのバスボムも半分に割ると2回分になるけれど、そこはもう1つ丸々入れてやろうという怠惰をしでかす。でも、その怠惰が身と心に染み渡り、塞翁が馬だったりもする。でも、湯船に浸かりすぎてお湯がもはやお湯じゃなくなり、徐々に身体が冷えてくる。怠惰に浸かり、怠惰に怠惰を重ね、怠惰に寄り添う。そんな怠惰に塗れた身体が冷えてくるのが分かると、怠惰のバロメーターを測るのって難しいのだなと感じる。

そんなあえての怠惰から得られる幸福感は、何物にも代え難い。でも、ずっとそのままでいけないのは分かっているし、その裏側の幸福感も味わいたい。中途半端な怠惰からは幸福感を得られるけれど、怠惰が習慣化してしまうと成長することを止めてしまう。そして、悪循環に繋がってしまうのだ。だから、過去の男をいつまでも忘れられないのは執着であり、怠惰でもあるのかもしれない。また、過去を認めることと執着を手放すことは紙一重なのだろうか。

過去の男を忘れるのは容易ではないけれど、その執着を全て捨てて余裕のある女でいるのは何よりも幸せだろうと思う。「過去 -(執着 + 怠惰)= 余裕」の方程式が成り立つと、きっと見える世界はとても清々しくて美しくなるはずだ。過去の自分と比べれば、今は執着と怠惰は大分差っ引かれている。でも、まだ(執着+怠惰)が二乗も三乗もしてしまう時だってある。

それを良しとするべきか、悪しとするべきかは、その時の状況に委ねたい。悪い習慣化を避ければ、怠惰であることは自分自身を許すことにも繋がるし、心も軽くなるからだ。それ故、過去の男を忘れられても忘れられなくても、そこには自分の心を癒せる術はあるのかもしれない。

怠惰に寄せてとことん自分を甘やかすこと、怠惰に寄り添いすぎて自分の価値を変動させてしまうこと、全ては自己責任である。どこかで他人の愛を期待しているのかもしれないが、その期待が起こり得ない前提で生活した方が自己肯定感は保たれやすい。怠惰に寄せて寄せて寄せまくり、ふとした時に初めて過去の男の慈悲深さに気付くということなのかな。

本当のところ、怠惰であることに罪悪感を抱いたり、そんな自分を甘やかしたり、自分でもよく分からなくなることがある。ある日は、病院で「ビタミン不足ですね」と診断された後に、マックに行った。だって隣にあるから。そんな矛盾と怠惰を迷い無く受け入れられたら、もっともっと自分を好きになれるんだろうなと思った。

そのバローメーターは日々変り行くけど、どんな感情を抱く自分も好きでいたい。ネガティブであることは物事を繊細に捉えられるということだし、何も間違ってはいないのだ。そんな誰でも持ち得ない才能を持って生まれた自分を、今日も愛でてあげたい。

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