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利き手骨折!ギプスで挑んだ小学校入試(前編)

 入試まで1か月を切った昨年10月初旬、娘が骨折をした。
上腕骨顆上骨折。折れた骨片が転位した重度のもので、緊急手術でボルトを3本入れることになった。
短い間で絶望の淵から立ち直り、第一志望校合格を掴むまでの軌跡を綴る。

 小雨の降る、どんよりと湿度の高い日だった。
体操教室には15,6人ほどの子供達がいたが、一様に疲れているように見えた。無理もない。みんなラストスパートで日々追い込まれている。
いつものように授業が始まり、自由に動きながらギャロップに入った時、
肘から床に崩れ落ちた。泣いている。
腕を見た瞬間、素人でもこれはまずいとわかった。骨の形がおかしい。
着の身着のまま体操教室を飛び出してかかりつけの整形外科に行った。

「これは急がないと。ボルトを3本入れることになるね。」近隣の大病院に連絡をしてもらい、娘は全身麻酔下での手術を受けることになった。
術前検査でも泣き言一つ言わず気を付けをし、名前と年齢を伝えて
検査室に一人入っていく娘の健気な後ろ姿に、ただ涙するしかなかった。
21時半、娘が手術室に入った。

コロナ対策で換気のため窓の開いた待合室には秋風が吹きこみ、
ようやく私は冷静になった。
とにかく娘の手術が無事に終わってほしいと願い、そしてやっと、受験はどうなるのかと考え始めた。

娘にはまるで非がなかった。バランスを崩した男児が後ろから娘の背中にぶつかってきた。やるせない。密集した状態で受験直前の子供たちに自由にギャロップをさせた体操教室の運営に非がある。怪我をさせた子の親御さんの気持ちを考えると心苦しく、そちら側でなくてよかったと思ったり、そんなことよりも起こってしまったことをどう乗り越えていくか。受験予定校全てに連絡?そもそも右手はどの程度使えるの?運動や巧緻性はどうなる?ペーパーは答えを書けるのか?そもそもギプスでどのぐらい不自由になるの?これだけ準備してきたのに?娘の精神状態は??不安しかなかった。

翌1時。ようやく手術室を出てきた娘は麻酔でぐっすり眠っていた。無事に手術室を出てきた寝顔に安堵し、涙があふれた。
執刀医から「5歳でこんなに立派な子は見たことがありません。看護師や私に、よろしくお願いします!って言ってから麻酔で眠ったんです。怖かったろうに。」と言われ、涙が止まらなかった。
とにかく生きて出てきてくれてよかった。もう受験はなんとでもなる!
やっとそう思えた。コロナ禍で病棟で付き添うこともできず、後ろ髪をひかれながらタクシーに乗る。
経過がよければ昼過ぎに退院とのこと。
やっと自宅に帰ったものの、心配で一睡もできなかった。

昼になりお迎えの時間になったものの、検査や診察が押してなかなか会えない。小児病棟前の廊下で待つ1時間が本当に長かった。早く会って抱きしめたい。

ようやく、上腕から手首までガチガチのギプスに三角巾を付け娘が出てきた。「すごく強そうでしょ!」と笑っている。
家に帰ると、お腹がすいたというので、前日一緒にこねたハンバーグを2つも食べた。とても元気だ。おいもほりで掘ったサツマイモのポタージュは残念ながら昨夜の騒動で冷蔵庫にしまいそびれ、腐ってしまっていた。
テレビでも見てゆっくり休むように言うと、
「折り紙で鶴を折りたい。あと、左手で絵を描いてみる」と言い始めた。

右手なしで鶴を必死に折る。角と角を合わせることも、折れ線をしっかりつけることも、簡単にできていたことがなかなかできない。
それでも娘はあきらめなかった。いつもの何倍もの時間をかけ完成させた鶴は、お世辞にもうまくはできていなかったけど、努力の賜物だった。
今度は絵を描き始めた。たくさんの色を使って様々な模様を描き、「私のつけたい三角巾」を描いた。その後、象やキリンなど、いつもはクーピーで描くところを、左手でも扱いやすいクレヨンで描いていく。左手で箸を持ち大豆を掴む練習まで始めた。
「ママ、私大丈夫だよ。左手でも絶対勝てるから。」と言った。
もう泣いている場合ではない。この子のためにできることを今、なんでもしなくては!!!

夫が受験予定校に片っ端から電話を入れた。試験の配慮をしてほしいのではない。考査に来た時にケガ人がいたら迷惑をかけるからだ。
「できることはやる。できないことはできないなりにどうしたらいいか考えて先生に伝える。一生懸命リハビリをして、やれることをしよう!」家族一丸となって、それからの日々を必死に過ごした。

暫く連日病院に通い、骨の状態を見てもらった。
数日右手首を動かすことは禁忌だったが、右手首を動かしていい、という許可をいただいてからは鉛筆が持ちやすいように親指の根本の関節が見える位置までギプスをカットしてもらった。
やはりペーパーでは右手を使いたいと娘が言う。
右手に力を入れて鉛筆を持ち、書く作業は予想以上に大変だった。
ギプスで右手首を固定された状態で必死に肩を動かして鉛筆を操作する練習をした。点図形やなぞりなど、今まで速く、濃く、キレイに書けたものも遅く、薄く、なかなかキレイに書けなかったが、娘はあきらめなかった。

動かしてはいけない場所以外の筋肉をしっかり使うことで骨折箇所の治癒が促進されると聞き、ジャンプやステップなどの運動も徐々に再開した。
ペーパーを休んだのは1日。絵や巧緻性に関しては一日も休まなかった。
教室も1日休んだだけで、すぐに通い始めた。
手を負っても、先生に励まされ、友達と切磋琢磨しながら過ごす時間は、娘をどんどん強くした。

そして骨折から2週間足らず。初戦の神奈川校を迎えた。
初戦に選んだ学校は思考力を要されるペーパー課題、運動、巧緻性、絵画、行動観察など多岐にわたりバランスよく発達を見る学校だ。
娘は気合十分。駅から学校までの道のりに「オオキナコエニナール」「アキラメナイケル」など薬っぽい名前を付けたラムネを食べさせながら楽しく向かった。校門が見えると、背筋をすっと正した。心なしか顔つきも変わっていた。
事前に骨折の連絡をして、念のため診断書を用意し、現在の状況を便箋にしたためたものを受付にて渡すと、校長先生と体育の先生が応対してくださった。「直近の診察では右腕に負担のかかるもの以外は運動もできます。できないことは娘が判断して先生にお伝えしますので可能な限り考査に参加させてください。」と伝え、先方も「危ない場面ではこちらも注意します。しっかり見守りますのでご心配なく。」と言ってくださり、安心して娘を送り出した。

待つこと3時間。キラキラと満面の笑みを浮かべ娘が出てきた。
先生にご挨拶した帰り道、「ペーパーは全部できた。シール貼りは時間切れになっちゃったけど貼ったところは全部キレイに貼った。鉄棒が出ちゃったからこれはできません、って先生に言った。ジャンプはしっかりできたし、お手玉を右で上げて左で取るのはたくさん落としちゃったけど一所懸命やった。スプーンリレーは先生にお友達とぶつかってしまうかもしれなくて危ないからやめましょう、って言われたからコロナだけどマスクで応援していいですか、って聞いていいよ、って言われたから自分のチームを応援した。絵もしっかり描けたしお話の記憶も全部答えられた。絶対受かっていると思う。素敵な学校だった!」
あんなに幼かった娘が、ハンデを乗り越えて立派に戦ってきたと思うととてもいじらしく、帰り道にはパスタにアイスクリームを付けてがんばりを称えた。

発表は同日20時。
結果は、もちろん合格していたらこれ以上嬉しいことはないが、しっかり戦ってくることができたし、できないこともあったので落選しても仕方ないと心づもりをしていたものの、受験番号とパスワードを入れる手が震えた。
ありがたいことに合格をいただくことができた。
家族で抱きしめあった。
次につながる戦いができたこと、できないことがありながらもその姿を認めてもらえたことで親子共に大きな自信になった。

後編へ続く




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