死にたいとかいうやつほど死なねぇやつ

不穏なタイトルだけど、かつての怒りを諌める思いで書いた。
あと「死にたい」と、なぜか虚空に向けていう人たちに心が振り回される人に向けて書いている。
なので、こういう人を救いたいだあなんて気持ちは、全く無い。
こちとら死にたくないけど死にかけなんだがな!
「死んだ方がマシ」みたいなもほぼ同じ。

Q.生きているのが辛いです
A.いずれみんな死にますのでご安心ください
ところで、生きるのが辛くないだなんて誰が決めたんだろう?
真面目に脚トレをやってから言ってくんない?

と、話を戻すと、過去に僕の周りにこんな感じの人が1人いて、(勝手に)振り回された側としての記録に近い。
なのでその人に向けては非常に申し訳ないと(全くもって心にもないことを)思いつつも、わかった気になった人が勝手に書いているだけである。
とりあえずでもいいから納得できるものを用意しておかないと、こっちもイライラするし、腹立たしい。
人間讃歌は『勇気』の賛歌!!生きようとしないなんてノミ以下だ!!!
こう、あえて書くとスッキリはできる。
僕は人間性に問題があるので晒してしまうけれど、皆はメモ書きとか日記にして誰にも見せないほうが良いだろう。

凄い!いつもの4倍以上のボリュームになった!!
賢王も許してくれるだろう。

我が声を聞け!全砲門、解錠!!
矢を構えよ、我が許す! 至高の財を持ってウルクの守りを見せるがいい!
大地を濡らすは我が決意!『王の号砲』!

FGO ギルガメッシュ

ありもしない心配だが、本人が見ているなら「貴様は何もわかっていない」と怒りながら見るか、ここで見るのをやめたほうが良い。
他人に苛つきをぶつけてスッキリするなら、それはそれでいいんじゃない?知らんけど。
文句は受け付けます。まぁ、どうせ直接連絡なんか来ない。できるような人ではない、と思う。
と、はじめに方針や断りを書いておけば文書主義の現代においてはある程度まで許されるはずだ。
いつも通りの想像で書いているが、こういう人たちの内情はともかくとして、色んな人から見える現実においては、3割ほど的を射たものだと思う。
だいたい伝わるのは内容の1割程度だと思うので、真実は3%未満だろうか。

さて、タイトル通りなので周りの人はどうか安心してほしい。
変に同情するほうが辛いと思う。そもそも内情とかわからないし。

個人的には、死ぬことが何か微塵もわかりもしないで何をいうか、と思う。
自分がどうやって死んでゆくのかを鮮明に描いたことがあるのか。僕はある。この1ヶ月で最低でも2パターンな。こちとら不本意ながら今際の際だぞ。
積み上げたものの差を考えてみよ、解像度が違うわ。
夜眠る怖さと、朝を迎えられた時の嬉しさがわかるだろうか。自分の鼓動があと何回なのか、イヤホンをしても聞こえてくる心音を感じながら想像したことがあるだろうか。
こういう人の想像なんぞ、精々苦しまずに死ねるかどうかの想像だろ?そんなもん有りはしないな。
死にたいと思って想像できる死なんてただの妄想でしかない。
ただの逃避、思考停止だ。立ち向かってすらいない。
「こうして何も食べなければ死ねるのかな…」だってさ。そうだね(苦笑)。
こうやって衰え、抗いながらも自分の身体が壊れていくのを止められないのだな、と絶望したことがない人の言うことなんざ、この程度。

本当に死にそうな人は、何も言わないものだ。
だから心配すべきは何もそんな素振りも見せずに、色んなことに耐えている人だと思う。
そうして精神的なギアが摩耗して壊れてしまう。
人が最も強く、そして最も弱い場所が心ではないだろうか。

なのでこういう「死にたい」とかいう人は、やむにやまれず、中途半端な宙ぶらりんな状態なのだと思う。
何も抗っちゃいない。流されただけだろう。

同級生が自殺したりとかで急にいなくなってしまう経験をした人なら、この感情はなんとなくわかるかなぁ、と思う。
まぁ、そういうときに限ってかけるべきはずだった言葉がなかなか見つからない、というのが辛いところだが、ふむふむと話を聞いておくのも大事なのではないかな、と今になれば思う。
あとは、何かできたんじゃないかという考えに支配される。
一緒にご飯や遊びにでも行こう、と誘うのが良いのかな?
ウザがられても声をかけ続けるのは、必要なお節介だと思うが。
「今のあなたがどう感じていようとあなたがいなくなるのは、悲しいと思う」ことだけでも伝えておく必要があるだろう。

とまぁ、脱線という本流はこの辺にして。
「死にたい」と周りにいう人は、実は死にたいだなんて微塵も思ってはいない。
先に書いたように「死んだほうがマシ」もほぼ同じ。
思ってもいないことを何故、あえて言うのだろうか。
少し考えてみたい。

あまり好きではないラベリングたが、僕の勝手なプロファイリングだと、概ね自己理想が高くて、自己実現欲求が満たされていない人はこういう思想になるように思う。
自分のことを駄目な人間だ、といいつつも、である。
そして、他人にも何故か酔っているのか、惚れっぽい。勝手に依存する。依存された人は、心からご愁傷様ですと伝えたい。
そして執念深い。根に持つタイプだ。
自分だけが悲劇のヒロインみたいな思想もある気がする。
被害者意識みたいなものだけど、人間は大抵の場合、加害者側かと。

自分自身に対して、どうにならないことに根に持っているんだろう、というのが僕の意見である。
そして、他人が何をいっても聞く耳を持たない。
自分の内面にしか意識が向いていないから当然である。打てども響かずなのは、そもそもそれが鐘ではないか、届いていないか。
ちなみにお寺にある鐘をつく棒のことを撞木(しゅもく)って呼ぶらしいです。
まず、聞く耳を持たないのは、他人を意識できていないからだと思う。これはつまり自分自身を見ているつもりだけど、正しくは、何も見ることができていないという意味になる。
自分を意識するためには、他人が必要である。上手な人は、第二の自分みたいなものがいたりする。増えすぎると、意見がとっ散らかってしまうそうだ。
あとは、こういう人に限って無意識みたいなものもわかっていないのかなぁと思う。
自分自身が意識していることが、この世の全てだと思っているのだろう。
僕は未だに自分の身体を構成する分子や、原子の仕組みなんてものすらもわからずにいます。
ここまで書いてくると、メンタルヘルスケアとかそういう次元の問題ですらないように感じてくる。
そもそも、異常を異常と認識できる状態にすらないのだから。

脱線したが、自分自身を許せないとでもいうのかな。それも過去の。
もう戦えもしない過去の自分と争ってどうすんの、とか真っ当な意見は置いておく。過去の記録と戦うならまだマシだけど。
絶対評価と相対評価との区別もついていないのかな。
そうしてリフレインを重ねて、もはや何に対して苛立ち、何を変えたかったのかすらよくわからなくなっているから、そんなものははじめからなかったことにして消してしまいたい、だから「死にたい」だなんて思ってもできない戯言を垂れてしまうみたいな思想だろうか?

正しくは「助けて」だと思うんだけど、他人には助けを求めていないのにこんなことを宣うのである。
あえて消えないように油性マジックで書いておいて、その後に必死に消しゴムで擦っているのだ。
薄くはなれど、消えはしない。
そこに除光液があっても使いはしない。だって素地が痛むから。
でも、ゴシゴシ擦っている。傷ついているのも知らずに。
こういう常識外れな感じが、思ってもいないことをあえて虚空に向けて浮かべてしまう理由なのかな。
理由があるから発言するのではなくて、発言することそのものが目的になっているのか。

どう?あたってる?効いてる?
少しでもイラッと来たならそれは事実に近いと思うけど、いかが?
勝手に人の傷口弄るなよって?
ならいわしてもらうが、勝手にヘラヘラしてんじゃないよ。
そもそも誰しもが絶望し、必死に耐えている。それが通常。
誰も彼もいつもどこかで闘っている。それを普段は決して見せず、周りは知らない「振り」をしているだけである。
つまり、人として正常な範囲であるといえる。その状態に気がついただけ。
だから「四苦八苦」という言葉があるのだと思うし、あらゆる教えは、苦しみから救いがあるように導くものが多いように観測される。
悩み続けるのが、本来のあるべき姿であるとすら思う。その頭はなんのためについている?

どんな大病であっても、這ってでも死ぬまで生きるのだ。

あ、ちなみに何も考えていない人も中にはいます。
そういう人は、有害でもないが無害でもないし、ただただ、不快。ミュートが正解。単純明快あーそうかい。

とまぁ、こんなことを書くと
「君は恵まれているから、できない人の気持ちがわからないのだ」
とか言われそうだ。
一応答えると
「恵まれているとか、できないとかいう言葉があやふやなので、どんな人の気持ちがわからないのかが全くわからない。なのであなたの言っている言葉の意味がわからない」
である。
多分怒られるので、こういう回答は思いはしても口に出してはいけないと思う。

恵まれているとは何だろうか?何が恵まれているのだろう。
できる人とは何だろうか?できない人とは何だろうか?

思うに、人は恵まれている。
そして、昔より現代のほうが恵まれている。
日本だから、という前書きはあるけれど、戦争で自分の未来を強制的に選ばれるような世の中ではないし、教育も母国語で受けられる。
ハラスメントも減ってきていると思う。少なくとも若い人ほどそういうものを避けるように生きていると思う。
悪いことを無くそうと、良くしようと、ありとあらゆる人が力を注いできたその結果が現代だと思う。
だから、恵まれないとかいうあたかも自分(僕のことです)のほうが優位にあることや、誰かを貶めるなどという優劣をつけることがそもそも下品だと感じる。これは、謙られても同様。
どんぐりの背比べ。五十歩百歩である。
神様に比べれば人は恵まれていないかもしれないかな、と思う。そういうものを神様と呼ぶので。

仕事だってたくさんある。
親友の父親の言葉だが
「選ぶから『仕事が無い』とか意味不明なことを言い出すんだ、仕事は絶対にある」
とのことだ。

できる人とできない人との話につながるが、正直な話は、できることをただやれば良い。
できないことに頓着する理由は、特にない。

ここで、仕事の本質に話を移すが、自分でない誰かの役に立つことである、と思う。

また、バイトと正社員の違いは何かを説明できるだろうか?
バイトも正社員も、誰かの役に立っているが、両者には天地ほど待遇に差がある。
この両者の違いの一つの答えは「(会社にとって)利益をもたらすものか否か」である。
バイトは労働力しか提供できていない。つまり、正社員の代わりに労働力を提供している。何も考えなくても良い。
正社員は違う。利益のため、もっと裾野を広げれば、世界にとって有益なことをするために、会社すら利用する立場の者である。
ここまで見ても、本当にバイトでいいのだろうか?

ということなので、整理すると
「貴方は人の気持ちがわからない」
と言われているのかもしれない。

わかろうとされていないのは、実はあなたの方では?

聞きたいことを聞きたい、知りたいことを知りたい。
という構文のようだ。
難癖つけたいだけのように感じるのだが。

なので正しくは
「私はあなたが嫌いです」
という意味だと思う。
だから似たような言葉をかけらた人は
「ああ、この人は自分のこと嫌いなんだな」
と思えばいいはずである。

これで解決した。
もう付き合わなければお互いハッピーだ。
何という無駄な過去を掘り返したのだろう。
大きな川で跳ねるボラを見ている方が有意義かもしれない。めっちゃいいよ。

消したい過去なんて腐るほどあれど、それが今の自分を作って来たのだと考えればそれを消したいだなんて到底思えない、というような言葉を見たことがある。
というか、どうやっても消せないからね。
こうやって折り合いをつけて、勝ち得たかった理想すら捨てて大人になるのが、よくあるパターン。

理想なんて自分が勝手に作り上げたものなのだから、捨てるのも自由だと思うがどうだろう?
市川春子さんの宝石の国で出てくる戦闘狂のボルトだって「戦うよりクラゲの世話のほうが楽しい」と終盤は発言していた。

嫌なら辞めるというのは、こういうときにこそ成り立つ言葉だと思う。
注意したいのは、楽なとこだけやれば良いという言葉の意味は、これと同じではない。
まともに考えれば、「続かなかったのは、自分にとって嫌じゃないことではなかったからかなぁ?」というものだと思う。
好きだから続くとも限らないだろう。
やりたいことだから続くとも限らないだろうし、できることになるとも限らない。
結果論じゃん、という反論もあるだろうけれど結果そのものは大事。
結果論が悪なのではなくて、それが全てだと思うのは良くないという話。ちゃんと疑問符がついているのはそういう意味。

継続が得意な友達いわく
「辞める理由を無くしていけば自ずと続けられる」
そうだ。
全くもってそのとおりだと思う。

一方の僕は
「とにかくやる」
というNIKEのキャッチフレーズが好きだったりする。

ごちゃごちゃ考える暇があれば、とりあえずやっちゃえばいい。

僕は始めるのが遅いので、いつも準備している。
すぐに始められるように手元に置いておく。

ホームジムを小規模ながら作ったのもそういう理由。
始めさえすれば、あとは身体が重りを上げてくれる。
大抵の辞める理由は気持ちの問題。本当に体調不良かどうかは身体が教えてくれる。

ま、これでもう無意味なことに悩む必要はないってことだな。

どうか死ぬまで、良い人生を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?