厄年とかマジで関係ない

厄年を越えて29歳にして今際の際に立たされている人です。
少なくとも、僕にとっては何も意味のない記号だった。
時折、なぜ自分なのかなぁとか思うけど、そもそも結果が出るまでは何もわからないこの世の中では、全く意味がない問だということに気がついて、冷静になれる。

不安も気の所為。
ただ、結果がそうであっただけ。

ところで、マジって真面目の略らしいですよ(2回目)。
マジ卍?わろたにえん。

だからみんなお祓いとか行かなくてもいいよ、とは思わない。

行ったほうがスッキリするなら行ったほうが良いと思う。

健康というのは、身体、精神、社会的な要素がそれぞれ直接的に連動して、well-beingな状態といわれており、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。
ここに、霊的というか、社会的とも精神的とも少し異なる要素が入るのでは?という議論もあったらしい。

霊的というのは、英語だとスピリチュアル。
なので若干怪しげに聞こえるが、僕が思うにこれは、宗教的な要素だったり、文化的な、これをやらないと気持ちが悪いみたいなものだと思う。
もはや生活リズム、みたいなものなのかなぁ?

ここで雑学。
実は、日本人は1日に6回ほどお祈りをしている。

食事の際には「いただきます」と「ごちそうさまでした」と手を合わせるだろう。
これは、明らかにお祈りである。

ちょっとした想像だけど、ある日突然「あなたはこれから食事の際には『いただきます』も『ごちそうさま』ということをしてはならない」と指示があったとすると、何か違和感を感じながら生きることになると思う。

社会的とも精神的ともとれるけれど、どちらかといえば、自分の中の霊的な要素が侵されているのではないかと思う。
あったはずのものがないような。

これほどまでに生活の一部となっているものが、宗教を宗教たらしめるものだと思う。
こう考えれば、毎日メッカにお祈りが必要な方々がどれほどそれを大切に思うのかも理解できるはず。
意識の差はあるだろうけど、やらないと気持ち悪いだろうなぁ、という点ではわかる。
ラマダンとかも。

生理的に無理、と似た感じで、霊的に無理、という、究極の拒絶を思いついたので誰か使ってください。後生ですから。

まぁ別に宗教の大切さを説きたいわけではないが、傍から見ればそうかもしれない、というものが「厄年」というものだと思う。

僕は信じない側なだけ。
統計データが数万単位であって、きれいなガウス分布とか、体系的に理論で説明されれば信じるかもしれない。
まぁ僕は外れ値だったけれど。
お祓いにも行かなかったし、何もなかった。

とまぁ、厄年なんて僕の健康には関係ないなというだけである。
あえて抜いた目的語。

と書くとこういう意見もあると思う。
「まぁまぁ、そういわずに。
長く生きていく中でたまにはそういうこともあるよ、と気を引き締めるきっかけだからさ」

うーん。
みんな、多かれ少なかれ、日々色んなことに恐怖しながら、ふとした瞬間に暗い気持ちに引きずられてしまいそうになりながら生きている、と僕は思っている。
そんな「たまには」なんて甘っちょろいこと言ってる暇なんてなく、日々死にものぐるいだとすら感じる。

長く健康でありたいと、そう願っている。

そして、もう少し広げて考えると、身体に癌があるから不健康というわけではない。
不健康だから癌になるわけでもない。
身体だけで健康は決まらない。
精神と社会、そしてなにより霊性にゆらぎがなければ、少なくとも体調だけが不調であっても、不健康ではない、と思う。

最も健康的な癌患者になってやろう。
とりあえず、ジムに通うためにも貧血を治さねば。

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