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真実を知らない(忘れている)からこそ、私たちは深刻になるのだ
もう一つの選択肢があることを思い出すなら私たちがこの世界を眺めるとき、自分たちが見ている知覚とはまったくちがう別の知覚の仕方があるのだということを、私たちは忘れたままになっていると言うことができます。
でも、私たちが「別の見方がある」ということを、もう一つの選択肢があることを思い出すなら、私たちは深刻になる必要はないと分かります。
なぜなら、そうなるなら、自分には選択の自由があることを思い出す
私たちはひとつ=私はいない
玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようにコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、何をしているのか?
というなら、それは、自分とは何者か?自分とは誰なのか?という真我の探究をしていると言うことができるでしょう。
それは、まるで自己概念の仮面が剥がれ落ちていくようなプロセスだといえます。
まさに、そのプロセスは玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようなものに喩えることができ
真理を幻想の中に持ち込むのではなく、幻想を真理のもとに運ぶこと
心を自覚した状態(マインドフルネス)とは非二元、つまり、一元論のスピリチュアリティというものは、本来、この世界の夢から目覚めていくための霊性の道であるわけです。
もちろん、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)もその中の一つの道でです。
では、目覚めるとはどういうことなのか?
というなら、自分が経験しているものすべてに対して、「これは自分が見たくて見ている夢(幻想)にすぎない」と自覚して
真新しい思考体系を学んでいくうえでの心構え
コースは従来のスピリチュアリティとはまったく異なるものである実際、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを本当に理解するようになるならば、コースは私たちが思っているようなものとはまったくちがうということが分かってきます。
コースというスピリチュアリティは、自分たちが思っているようなモノではないどころか、それを遥かに超えていくモノであるということです。
ですから、コースを本
「赦し」は真のアイデンティティーを思い出していくためのものである
自分は心(の決断の主体)である、ということを自覚していくための方法私たちは自分を人間だと信じていて、本当は自分が何者なのか?自分は誰なのか?についてすっかり忘れた状態になっています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、その忘れてしまった自分の本性、つまり、真のアイデンティティーを思い出していくことを目的としていると言うことができます。
ですから、その実践では、自分は心(の決断の主体
「ネガティブ」も「ポジティブ」も一緒
二元性を超える「今、幸せになりましょう」
「今、幸せを感じましょう」
純粋な非二元の道、一元論のスピリチュアリティを歩んでいる者であるならば、そういった言葉には十分に熟考していく必要があるといえましょう。
というのも、この世界の夢から目覚めようとしている私たちに求められているものは、ポジティブシンキングとはまったくちがうものだからです。
いわゆる、ネガティブをポジティブに変えるというようなこ
ラマナマハルシが「自己探究(self-inquiry)」と呼んでいたもの
私とはだれか?神とはなにか?「悟り」と言うとき、それは「達観する」「到達する」というイメージがあったりするわけですが、
実際、私自身の感覚で言うならば、「悟り」とはそういうものとはちがって、むしろ、この世界の夢を知覚しているかぎり、それはけっして終わることのない自己探究なのだというふうに思えているのが正直なところです。
それは無限なるものへの探究なのだということです。
それはもはや好奇心や
コースは学ばなければならないものなのでしょうか?
死によってではなく真理によってこの世を去るコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は学ばなければならないものなのでしょうか?
というならば、それはNOです。
コースを学ばなければならないということはまったくありません。
それは義務(必修科目)ではありません、ということです。
たしかに、コースには「必修科目である」(T-in.1:2)というふうに述べてありますが、そのメッセージはコースを口
コースの学びの階梯を上っていくために私たちが成さなければならないこと
コースを学んでいるのは個人の自分ではない私たちは、自分たちを人間だと信じています。
そして、個別の存在としての「個人の自分」を自分だと信じています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びのプロセスでいえば、最初は、その個人の自分がコースを学ぶというところからはじまります。
そして、コース形而上学を理解するようになり、その学びが深まっていくにつれて、
コースを学んでいる自分は「