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何気ない文章表現から、急速に自己理解が進むことがある。

「noteやってみたい」と言い出した息子たちと盛り上がっているところで、夫のつまらない発言にしらけた、という話を書いたのが5日前。

何度か読み返しているうちに、
この記事内のある文章に、「あ…」と引っかかる部分を見つけた。

41歳のこども母ちゃんは一緒にときめいて、
「タロウちゃんは4年生になったら、ジロウちゃんは1年生になったら始めたらどうだろう」と言ってみた。息子たちは、うん、それでいい!!と湧いている。
3歳の末っ子ハナコ(仮名)も「ハナちゃんもフォロワー欲しい!!」と騒ぎ始めた。おぉ、何の話してるか意外とわかってるんだな…!

そこに、こども心を実家の納戸にでも置き忘れてきたような46歳のおとな父ちゃんが一言。

「こども心を実家の納戸にでも置き忘れてきたような」

この表現が的確な気がして気に入っていたのだが、何度か読み返すうちに、

忘れ物ができるような実家の納戸があって、アンタはいいよね

夫に対して、そんな感情を持っていることに気づいた。書いているときは、気づかなかったのに。

地元札幌に住んでいた頃、大学2年から両親が別居し、それぞれ賃貸のアパート住まいになったことや、その後、そこから母だけが故郷の鹿児島へ出戻ったこと、その2年後に私は兄を残して上京したことで、持ち物の大部分を手放してきた。

特に忘れられないのが、シルバニアファミリーだ。上京するときに、未練たらたらで、リサイクルショップに売りに行った。

東京で8年暮らし、その後奈良に移住して、子育てに専念(できてなかったけど)していたときに、なぜだか急に、手放したシルバニアファミリーのことを思い出した。そして欲しくなった。

今はなき「メルカリアッテ」という、直接会って不要品を購入できる地域コミュニティサイトでたまたま見つけ、持っていた商品とほぼ同じものを購入したのだった。

80年代の初期のシルバニアファミリー

他にも、もう本屋さんでは売っていない、実家にあった絵本を2冊、古本サイトで見つけて買うなど、
「実家にあったものを必死に取り戻すような作業」を私は数年前にしているのだった。

買い直したところで、「不本意ながら手放した事実」は変わらない。ただ、癒したい感情があったのだと思う。

また、こうも思う。
実家に置いておけなかった思い出を、記憶に刻んで東京にも運び、その後奈良へも連れていった。だから、私は子どもの頃の感覚を、色々と覚えているのかもしれないな、と。
手放したくなくて、必死だったのかもしれない。

忘れ物ができるような実家の納戸があって、アンタはいいよね

ただ、誤解のないように伝えたい。
この感情は誰にでも思うわけではなくて、今回、「子どものように楽しい気持ち」を夫に壊されたやるせなさから、
「あなたは子どもの頃の思い出の保管場所がちゃんとあるもんね、だから手離せてるんでしょ」
という気持ちからの、恨み節ではないかと感じている。

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