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父への感謝が止まらない〜かぜの帽子さんの記事を読んで。

私の記事に時々登場している、社会不適合で、残念な存在っぽく描かれてきた、私の父。

この辺りの記事で、さらっと綴っています。笑

こんな父の娘だけど、私はそれなりに軌道修正したり、昇華したりしてやってきた。
頑張ってるんじゃん?自分、なんて思っていた。

しかし、最近、フォローしているかぜの帽子さんの記事をいくつか読んでいるうちに、自分は、もしかして何か、思い違いをしていたのではないか…?と思い始めた。

こちらの記事がきっかけ。

K君の家庭にお呼ばれしたときの大きな違和感は、彼の父の心のなさに対して感じたのだろう。

K君の父親の心の矢印は、自分以外の人間には向いていなかった。

ずっと興味のベクトルは家庭よりも、研究に向いていたのだろう。

友人の父は立派な大学教授だが「心ないクソ野郎だ」と思った話|かぜの帽子(HSP・kindle作家)

私は15年前まで、札幌に住んでいたので、小さい頃は、冬はかまくら、ちょっとした坂道には雪の階段を、父がショベルで作ってくれたりした。

ソリに兄や私を乗せて、買い物に行き、父が時々ふざけて、わざとひっくり返したり。

夏は発寒川でどじょう掬いや釣りを楽しみ、
円山公園の梅の木をゆすって、かっぱらってきたこともある。
(いきなりローカルネタすみません)

父自身が私達との時間を楽しんでいた記憶がある。

私…愛情のコップは満タンにしてもらっていたんじゃないか。
だから、我が子や地域へ、その愛情を分けたいと思えるのかもしれない。

さらに、極めつけはこちらの記事。

最近になって思うのだが、健全な家庭、健全な家族というのは幻想で、みんなどこかしら不健全な部分、破れ目のようなものを抱えている。

健全な家庭は存在しない!?名越康文さんの「家族と絶望」という言葉に救われた|かぜの帽子(HSP・kindle作家)

…そうなんだ…

自分の家だけが、とは思っていないし、もっと大変な家庭があるとは思っているけど、ウチはウチで変わってて、なかなかに恥ずかしい、という思いを、ずーっと持って生きてきた。

見た目の悪い、ショボいお弁当が恥ずかしくて、教室の隅で蓋で隠しながら、1人こっそりと食べるような、そんな恥ずかしさを。

恥ずかしいと思う必要ないんじゃないか。
私は、幸せな家庭で育ったんじゃないか。

昔も今も、色々あるけど、
父は、楽しい遊びを見つける師匠で、
母も、私の「親ばか母ちゃん」のお手本だ。

元気なうちに、たくさん会っておきたいな。
なんだか今、親のことを思って、泣けて仕方ない。

かぜの帽子さん、素晴らしい記事をありがとうございます。

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