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夜とお菓子とわたし 夏の蒸し暑い夜、ベランダに出てアイスクリームを頬張る。漫画家の午後さんが書き下ろしたエッセイをどうぞ。

 はじめまして。午後と申します。
 普段からお菓子を作っては、その最中にぼんやりと考えていたことを、レシピとともに漫画にしています。私がお菓子作りを始めるのは大抵真夜中です。子どもの頃から睡眠がうまく取れない体質でした。暗い部屋の布団の中で、ただじっと朝を待つのに耐え切れず、明るい台所に逃げていました。そして、昔読んだ絵本に登場したような、甘くやさしいお菓子を作り出すことで、夜に襲ってくる不安や恐怖、孤独と折り合いをつけてきたように思います。
 人間の感情は、この宇宙よりはるかに膨大であると私は思っています。幸せや喜びはもちろん、憎しみや苦しみも。
 誰とも心の底からは理解し合うことのできないこの世界で、たった一人でなんにもせずに夜を越せるほど、私は強くありませんでした。ボウルの中の温かいバター、砂糖や卵、小麦粉とともに、どうにもできない私の宇宙も混ぜ込んで、ケーキにしてきました。焼き上がったケーキはとてもかわいくて、それを見ると少しだけ安心して朝を迎えられました。そのようにして、私はいくつもの眠れない夜を越してきました。たぶん、これからも。


 夜は不思議な時間帯だと、人より夜に慣れているであろう私であっても常々思います。「ラブレターは夜中に書いてはいけない」なんて言われますが、確かに夜が深まるにつれて、感情が手に負えなくなっていくのを感じます。自室の明かり以外、世界が暗闇に感じるからでしょうか。自分以外の生き物の気配を感じないからでしょうか。
 特に夏の夜は、自意識が肥大化しやすくなる気がします。冷房でほんのりと冷える指先。テレビをつければ、子ども向けアニメ映画が放映されています。涼しくて快適で、平和な夜のはずなのに、なぜか何かから必死に逃げ回っているような……。
 きっと、夏休みの宿題に追われた8月31日の夜の絶望を、無意識に思い出しているのでしょう。大人になって心からよかったと思います。もう夏休みの宿題に追われることはないからです。
 そんな焦燥感を打ち消すために、夏の夜にはアイスをよく食べます。爽やかなフルーツやソーダ味のアイスキャンディ、まろやかなバニラや抹茶などのアイスクリーム。いつかアイスクリームのレシピも作ってみたいです。大きなタッパーになみなみ作ったアイスクリームの入った冷凍庫……夢のようです。手作りアイスを好きなだけ器によそって、ベランダで夏の匂いを嗅ぎながら食べたいです。

 夏の夜は、青々と茂る草木や躍動する虫たちの、むせかえるほど強い生命力の匂いがします。全ての季節に匂いはありますが、夏の夜の匂いは最も力強く感じます。そして大勢の生き物たちの喜びに満ちたその気配に、なんだか妙に励まされるのです。……いずれにせよ、季節の匂いを堪能しながら食べるお菓子が、この世の一番のごちそうではないかと思っています(春は桜菓子、夏はアイス、秋は栗菓子か芋菓子、冬は洋酒の入ったお菓子を食べています)。


 ところで、アイスクリームを食べるたびに必ず思い出す言葉があります。「溶けたアイスクリームを再び冷やしても元の状態には戻らないように、一度壊れた心はもう二度と同じには戻らない」という、インターネットのどこかで見かけた言葉です。私はアイスの溶けかけた場所をスプーンで突きつつ、致命的に失われてしまったものについて考えます。


 思えば私は、誕生してから数多くの大切なものを奪われ、忘れ、永久に失ってしまったように感じます。生きていくことは変化していくことですから、それは仕方のないことなのかもしれません。きっと誰も悪くなかった。それでも、どうしても私は自分の中の損失に、祈りを捧げたくて仕方がないような気持ちになるのです。溶けたアイスクリーム。いくら伸ばしても取れない紙のシワ。決してお盆に戻らない水。私の損失……。
 ちなみにこの文章も真夜中に書きました。やはり夜中に文章は書かない方がいいのかもしれません。見つめても仕方のないことばかりを見つめてしまうからです。それでも私は真夜中に漫画を描き、世界の誰かが夜中に一人でつづった宇宙を読みたいと思ってしまうのです。テーブルの上に用意した手作りのお菓子とともに。

午後(ごご)さん
お菓子作りや料理、暮らしのひとコマを描いたコミックエッセイ『眠れぬ夜はケーキを焼いて』が第8回料理レシピ本大賞コミック賞を受賞。ツイッター @_zengo

文・イラスト=午後


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