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宇宙が存在する理由③:最新哲学からインテグラル理論を再考する。暫定版

インテグラル理論は最新哲学「新実在主義」「思弁的実在論」には批判されている。しかし、相容れないものではない。むしろ最新哲学こそインテグラル理論的である。また「新実在主義」「思弁的実在論」も完全に相容れない存在ではない。

そこで新たなインテグラル理論を考える上で、最新哲学に否定されるくらいなら、いっそのことこれらを取り込んでしまおうと試みる。そこで根本的な考えをざっくりおさらいする。

・新実存主義の中に思弁的実在論が成立する範囲があることを認める。
→このような試みはすでに行われているはずであり、これに対する反論や、論理的な批判と更なる考察はすでにされているだろう。しかし、今回はこれが今見えているところの最新の哲学と大雑把にまとめた上で話を進める。

・四象限の存在を認める。ここでの分け方は新たにこうなる。
精神(新実存主義のみが通用)と宇宙(思弁的実在論が通用)
・矛盾性が必須となる範囲と、無矛盾律の強い範囲がある。
これらが分けられる。

矛盾性×意味の場「心」
無矛盾性×意味の場「身体」
矛盾性×即自的「文化」
無矛盾性×即自的「宇宙」
の四つにわけられる。

これら全てに共通するような単一の世界は存在しない。また宇宙は心と比べれば無矛盾性が高いだけで完全に無矛盾と証明できたわけではない。宇宙でさえ意味の場に現れる以上は一定の矛盾性を持つ。

このうち、心よりは身体と文化は無矛盾性の傾向が強い。意味の場に現れていないものは、無矛盾な範囲で偶然の必然性がある。そしてそれがゆえに偶然意味の場に現れてくる。これを精神は選択することができる。

よって図のうちの青で書いたような傾向を示すことになる。身体や文化は心よりは無矛盾であり、心ほど矛盾できるわけではない。

そしてこれら四象限には説明性のルールがある。
①心の象限で描かれた無矛盾な物語は、他の象限を無矛盾な範囲で対応する形で説明できる。

人間なくして数学が宇宙に存在したわけがない。数学は必ずある程度、心や文化的な傾向を持ちながら意味の場に現れる。しかし、それがより無矛盾であるがゆえに、この宇宙はまるで数学が成立しているかのように振る舞う。

②しかし、サイクリングと自転車モデルで説明されるように、宇宙は心を部分的にしか説明できない。

宇宙の象限で心を説明することは、相手の心を知るときにその都度脳波やレントゲンで計測するような問題を引き起こす。相関はするが因果関係を突き止めることはできない。

③心は矛盾性と無矛盾性の両方を持つので、無矛盾性の高い宇宙を説明しやすいが、宇宙は無矛盾性に偏った傾向を示すため、矛盾性のある心を説明しずらい。いずれにせよ説明できるのは二つの意味が無矛盾な範囲においてである。

たとえば、脳波で怒りを感知し、その相手を怒っていると暫定することはできるかも知れない。しかし、その人がどう怒っているのか、その人の中での怒りのレベルを判断すること、何を考えているかは無矛盾律だけでは説明できない。しかし、たとえ曖昧な直観だとしても明日雨が降りそうは、無矛盾な範囲では説明できる。とはいえ、無矛盾な範囲でしかない。

つまり、宇宙を説明するときはより、矛盾性のある物語よりも、無矛盾な物語のほうがどちらかといえば説明能力が高いことになる。宇宙を観測する時、別に天動説でも地動説でもいいが、地動説のほうが計算が楽で説明やすい。

たとえば、宇宙人がどのような存在か考察するSFを様々なパターンで大量に書けばどれか一つくらいはそれに近いものとなり、そのSFのストーリーが無矛盾な内容であるほど実在する宇宙人に近いものを記述できたことになる。だからといって、そのSFとその宇宙人が同じものになるわけではない。その二つを全く同じとする世界は存在しないのだから。

これと同じことが、即自的な文化や身体、この宇宙にも起こっている。意味の場に現れていない即自的なものを推測するときは、無矛盾律、つまり論理的思考があったほうがより説明しやすくなるのだ。

歴史の空白を想像するにせよ、見てない漫画のストーリーを想像するにせよ、即自的なものは意味の場に出ているものより無矛盾性が考慮されやすくなる。

ただ「見てない漫画>歴史の空白>宇宙人のこと>宇宙人以外の宇宙」の順で矛盾性が高い傾向がることも間違いない。この傾向をこの四象限は説明している。ようは心(意味の選択性)の象限が関わるものほど矛盾性が高くなり、即自的で心が関係なくなるほど無矛盾性を持つ。

とはいえ、宇宙の説明するにも矛盾性が不要と言っているわけではない。矛盾する能力(1+1=3を考える力)がなければ無矛盾律(1+1=2)を説明することさえできなくなるので、意味の場は無矛盾律には一方的には従わない。むしろ矛盾性が無矛盾性の必要条件になっている。

ちょうどこの宇宙に地球人以外の宇宙人がいるか、会えるかは分からないが、少なくとも偶然性の必要性と、「空」「形」二元性があるため必ず地球人以外の宇宙人は存在する。

完全なる無からは何も生まれないため、この宇宙の最初は少なくとも何かになれるタイプの無であったことは確定している(これは哲学、宗教、自然科学でも反論はない)。これが「空」「形」二元性である。

その中に偶然性の必要性(無矛盾な限り、どんなことが起こってもおかしくはない)が発生するので、宇宙人は(それと会えるかは別として)必ず存在している。半々の確率で裏表のどちらかになるコインを、投げたら必ずいっつかは表がでる。そして偶然性の必要性はコインが必ず投げられることを意味している。これは「宇宙人の証明」、「宇宙人の『偶然性の必然性』ゆえの必然性」と呼ぶことができるだろう。

また、オムニバース(空+この宇宙+他の宇宙)は高度知的生命体(意味の場、矛盾を作る存在)を生じさせやすい諸傾向を持つ。中程度の人間原理である。

弱い人間原理:’’この宇宙’’は人間(高度知的生命体)が存在できるような性質を持つ(無矛盾律からすれば、1+1=2や、「空」「形」二元性と同じくらいあたりまえのことである)。
中程度の人間原理:この宇宙はいわずもがな、他の宇宙も人間が存在できるような性質をもち’’やすい’’。
強い人間原理:他の宇宙’’すべて’’も人間が存在できるような性質を持つ。

最新のインテグラル理論の性質

以上から最新哲学を参考にしたインテグラル理論の性質をまとめる。
⓪精神(矛盾した存在が必要)と宇宙(思弁的実在論も成立)の二元性。
→新実存主義の中に思弁的実在論が成立する範囲があり、それが即自的な宇宙。新実存主義は思弁的実在論を含んで超えている。あらゆる意味をひとまとめにする唯一なる世界は存在しない。全く対応した説明ができてもそれそのものではない。
①矛盾、無矛盾、意味の場、即自(意味の場に現れていない)の四象限性
②無矛盾律説明性:ある意味は他の意味、宇宙と無矛盾な範囲で対応して存在している。

・Aさんの1+1=2とのBさんの1+1=2は別物だが、Cさんは自らの1+1=2と照らし合わせて無矛盾だと判断すれば、両方に〇を付けられる。
・人間がいる前から宇宙に数学や1+1=2そのものが存在するわけがなく、数学の存在には矛盾が必要である。しかし、数学自体は無矛盾な物語のため、宇宙はまるで数学が実在するかのように振る舞う。とはいえ数学がいくら宇宙の振る舞いを説明できたところで、宇宙は数学それそものではない。
③心の説明優位性
→心による宇宙の説明性は、宇宙による心の説明性よりも必ず優位である。→サイクリングで自転車は説明できるが、自転車でサイクリングは説明できない。そしてそもそも矛盾が意味の場の必要条件であり、矛盾性がなければ無矛盾律を説明することもできない(1+1=3を想定できずに、1+1=2を考えることはできない)。ゆえに矛盾性「心」は無矛盾律に対して説明優位性を持つ。
④「空」「形」二元性
少なくとも宇宙は完全なる無ではなく、何かにはなれるタイプの無から始まっている。完全なる無は存在しない。新実存主義で「世界が存在しない」のは、「空」「形」二元性を持つ意味の場を「形」にできないから存在しないのである。「形」になっていないものは「空」であり、「空」には思弁的実在論が新実存主義に従いながら成立する。
⑤「『偶然性の必要性』ゆえの必然性」「宇宙人の証明」
→精神の意味の場に現れる無矛盾な物語に、それと無矛盾な範囲で対応した存在は、それに会えるかは別として必ず宇宙象限にも実在している。宇宙人は会えるかは別として必ず存在する。
⑥中程度の人間原理の支持
この宇宙はいわずもがな、「空」、他の宇宙も人間が存在できるような性質をもち’’やすい’’。

そして、その上でのインテグラル理論の意味についても再考察する。
インテグラル理論は依然として、個人の選択する細かな意味に言及できる理論ではない。個人個人の持つ細かな意味に言及するよりも集団の精神に着目する。

自分や相手をインテグラル理論に全てはめて説明するのは無茶だ。通用しない範囲がある。直接その構造を読むならばインテグラル理論を使うよりも、それそのものの構造を直接観察したほうが良い。

なにより新実存主義は統合的なもの試み一切をやめ、個々の構造をより先入観なく見よと言っているのだから。これを含んで超えた視点がインテグラル理論にも欠かせないのである。

しかしながら、新実存主義一辺倒ならまだしも思弁的実在論を新実存主義に部分的に導入すると話は少し変わってくる。ようは、無矛盾律説明性において活躍するのである。そして、自然科学の対象とする宇宙を説明する役割を自然科学任せた以上、人文科学的な、文化社会的な役割のほうをインテグラル理論は担うべきである。

よって宇宙における即自的な人間の動きを、包括的に記したできる限り無矛盾な物語がインテグラル理論なのである。

マルクス・ガブリエルが強い自然主義を強く批判する一方で、弱い自然主義を肯定するように、インテグラル理論も弱い自然主義的な立場を取るべきである。比較的、無矛盾な物語としてのインテグラル理論である。

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