三島由紀夫「英霊の声」(追記)


【英霊の声】

あらすじ:川崎という盲目の青年が、神を憑依させる。彼らはそれぞれ二・二六事件の将校たちと、神風特攻隊の青年たちと名乗る。

その彼らが、戦後日本と昭和天皇への恨みを川崎の口を借りて列席者に語る……というのが作品のあらましだが、あまりにも粗末な出来だ。

三島いわく能の形式を借りたらしいが、そんなことはいい。
とにかく何もかもだらしない。

まず、作者が神風特攻隊の人々の「声」を奪っているのは問題だ。
二次大戦下、不条理な死を強制された人々の声は、一作家ごときが作中で軽々しく「代弁」していいものでは決してない。

文章もエッセイ的な緩さでだらだら続く。
また戦後日本への恨みを語る集団が二・二六事件の将校たちと神風特攻隊の搭乗員の二つあるのも、フィクションの設定として不必要な長さに感じる。

また「英霊の声」はその前身に「悪臣の歌」という詩(めいた)作品があり、英霊たちの言葉もその詩の表現で語られるが、表現としては緩い。任意に引用すると、
「大ビルは建てども大義は崩壊し/その窓々は欲求不満の蛍光灯に輝き渡り、」
このレベルの表現が続く。

全体として三島の考えや三島のメッセージ性とフィクションとしての作品が痛ましい肉離れを起こしている。
その結果作品そのものが右翼団体の上調子なリーフレットもどきになっている。
しかし、この時点で三島には小説の出来などどうでも良かったかもしれない。

発表/刊行年は1966年、三島由紀夫41歳の作品。

(追記)サリンジャーの「テディ」を思い出した。
天才少年のテディが禅思想について語る作品で(最後には死んでしまう)、少し似ている。小説という想像力のフィールドからサリンジャーも三島も身を起こし離れつつある。別の現実/フィクションへ。
しかし、三島は無様な(としか呼びようのない)自衛隊基地での割腹自殺へと向かい、サリンジャーは禅の難解な(「テディ」収録の「ナイン・ストーリーズ」には冒頭、「両手で叩く音は知っているが、片手はいかに」という禅の公案が置かれている)思想へ入りこみ、広く読者全体へ呼びかける力を失った。

【追記】 

大本教について

筆者の知識不足で解説が不十分になっていたため、二つ付け加えさせてほしい。

まず、本作の神がかりの儀式は大本教という、戦前から続く神道系の新興宗教―天理教と同様に、生活苦を経験した女性があるとき神がかりして始まった―に基づくのだそうだ。

教祖出口なおの「お筆先」(なおの神がかりした言葉を聞き取ったもの)には
漢字の使用禁止
牛痘―天然痘のワクチン―に対する忌避
など時代的な限界を伺わせるものもあるとはいえ、国家神道及び明治政府に対し徹底した批判と世界終末の預言、そして世界の立て直しを呼びかけ続けた。確か「東京はまもなくすすき野になる」だったか。
戦時中はついに月宮殿と呼ばれる本殿をダイナマイトで爆破される(ダイナマイトの費用は教団に請求された。国家権力による明白な宗教弾圧である)。

なお、世界が建て直された後は松の世(松が常緑樹であることから、常に安泰の世の中を示す)―この世の何もかもが水晶のように日に澄み渡り、生活のことを心配しなくともよくなる理想郷がやってくるという。


そうした背景を持つ宗教の儀式で国家に殺害された特攻隊の若者たちを呼び出すところに、三島のせめてもの皮肉があっただろうか?
おそらくそこまで考えていないと思うが。

二・二六事件

右翼のなかで天皇制を高く評価する歴史認識の持ち主に、一度聞いてみたいことがある。二・二六事件の昭和天皇の対応である。
昭和天皇は青年将校らを逆賊として断固処罰した。この時点で、彼らの天皇を思う純粋な心情はその裏面としての憎悪に変わった。

今手元になく引用できないのが申し訳ないが、ぜひ首謀者たちの遺した言葉を読んでみてほしい。天皇に対する憎悪、非難、憤怒……あらゆる負の感情が書きつくされている。これが戦前に書かれ、しかも残されているのは驚きと呼ぶほかない。
うろ覚えだが、
「陛下、陛下、このような調子ではあなた様の世も長くは続かないものとご推察します」
こうした言葉が延々と書き述べられる。

三島由紀夫「悪心の歌」「英霊の声」の背景にはこの二・二六事件の首謀者たちの呻きがある。
だが筆者は三島とは違い、青年の激情が美しいとは思えないけれど。純粋な感情はそれゆえ赤子の手をひねるように、たやすく都合よく利用されるから。確か、彼らの「君側の奸を除く」はずの決起は結局東條英機らの対立勢力の一掃に使われたと記憶している。きちんとした記憶ではないのだが……

最後に、一説によるとラストで神がかりを行った青年、川崎の顔が何者ともつかないのは昭和天皇を暗に揶揄したのではないか、という話がある。
なるほど、確かに大日本帝國の統治者だった昭和天皇は、蝉が脱皮するように日本国の象徴になりおおせてしまった。そして後には、まるで日本はずっと日本であったような、ぼんやりとした歴史認識が残された。
大日本帝國と日本国の、本来埋めがたい落差を見ないことで「戦後」は成り立ってきたといってもいいだろう。

今、排外主義的な右翼が勢力を伸ばしているのはまず決して許してはいけない。
だが、その上で言えばこうした揺り戻しを抱えるリスクを、「戦後」は常に抱えていたのだ。無理やり地下に押し込んだプレートには歪な力が加わり、いつか必ず地震を引き起こす。
これまで「大日本帝國」に対する批判を充分深めないまま、アメリカに与えられた「日本国」に、ただ飛びついたツケを払っているように筆者は感じる。


筆者は大日本帝國を否定しなければならないと思っている。確かにあの時代によく独立を守ったとは思うし、夏目漱石、森鴎外に谷崎潤一郎、筆者の愛する多くの作家を有した国だ。
それでも否定しなければいけない。その輝かしい国家は同時に大逆事件を起こし、数多くの国民と諸外国の人々を殺した。
国家の名の下に神道という歴史ある宗教の形を歪め、キリスト教や仏教、数多くの新興宗教を弾圧した。

その血塗られた歴史の上にこの平和の日本国が、それも多くの欺瞞の上に成り立っているのは事実だと思う。それを私たちがあまりにも忘れすぎてきたことも。
だが筆者はたとえ欺瞞であっても、欺瞞の平和を求めていたいのだ。



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