面白かった短編小説+戯曲

偶然面白い短編と戯曲を連続して読んだので紹介したい。


中島京子「パスティス」より―「ゴドーを待たっしゃれ」

「パスティス―大人のアリスと三月兎のお茶会―」と題された本作は、「もとを辿ると「ごたまぜ」というような意味に行きつく」パスティーシュ―古今東西さまざまの名作傑作をパロディにした短編集。

その中でも個人的に好きなのが戯曲「ゴドーを待たっしゃれ」。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を、もし坪内逍遥が訳していたら?
坪内逍遥は元々シェイクスピア(沙翁)を訳しており、発想はそこからだろう。

その結果が以下になる。

エストラゴン:(また諦め)どうもならんわい。
ヴラジミル:(蝦蟇足がまあしにてよたよたと、小股に近寄ってきて)いや、さうかもしれぬ。わしはもとより其の考えに取りつかれちゃァならぬと知れて、あいヤ、ヴラジミル、おつむを使はっしゃい、おまひはまだ何もかもやっちゃァおらぬ。そして、また悪あがきぢゃ。(悪あがきに思い耽りつつ、エストラゴンに)はれま、おぬし、またそこに、おはしゃったかい。
エストラゴン:俺かよ。
ヴラジミル:おぬしに逢はれて恐悦至極。わしゃァ、また、てっきり、おぬしが行ったきりとばかり思いこんどったわい。
エストラゴン:俺もじゃ。
ヴラジミル:我ら、再会を祝して何をか為さん。(熟考)立ちゃれ。いざ抱擁せむ。

p202

とにかくゲラゲラ笑ったのだが、中島氏の言葉にあるように「もとの戯曲の世界観がまったく揺るがないことに」は驚くほかない。
逍遥の江戸のべらんめえ口調✕ベケットの神なき世界でゴドーを待つ哲学的戯曲は、ファンタジー料理の「焼き魚のチョコレートソース掛け」を思わせる名品。
ぜひ一度読んでくれると嬉しい。

ウディ・アレン「ミスター・ビッグ」

おれはオフィスの椅子にすわって愛用の三十八口径を手入れしながら、次の事件はいったいどこのどいつが持ち込んでくるのか、とぼんやり考えていた。

p252より

本作は「笑いの新大陸」というアメリカのユーモア文学を集めた全集に入っているが、古い本でもあり編者が間違えたのだろう、実際には極めて正統派のハードボイルドである。
ページ数は14ページしかないが美しくも謎めいた女性の依頼主との愛と裏切り、同僚との友情と苦難、次々と巻き起こる難事件に僅かな糸口から切り込む主人公……ハードボイルドものの短編のお手本のような作品だった。

私立探偵家業も悪くない。車のジャッキで歯茎をマッサージされることもないわけじゃないが、札束の甘い匂いを嗅げば苦労を忘れる。女はいわずもがなだ。もっともおれは女にはたいして興味がなくて、せいぜいのところ、呼吸することよりはもうちょい興味がある程度だが。だから、オフィスのドアがバタンとあいて、ヘザー・バトキスと名乗るブロンドの長い髪をした女が大またで入ってきて、あたしヌード・モデルだけど助けてほしいの、と切り出してきたときには、唾液腺のギアシフトがサードになった。ミニスカートにタイトなセーターという服装だったから、この女の豊満な肉体が描く放物線ときたらもう!用件を聞いているうちにおれの心拍が停止しかねなかった。
かわいこちゃんシュガー、用件は?」
「人を見つけてほしいのよ」
「行方不明か?警察には届けたのか?」
「まだよ、ミスター・ラボヴィッツ」
皇帝カイザーと呼んでくれ、シュガー。まあいい、くわしく話してくれ」
「神よ」
「神だと?」
「そう、神よ。創造主、根本原理、事物の根本原因、全なるもの、の神なの。見つけてほしいの」
(略)

p252〜253

ということで、本作のまともなハードボイルド要素は冒頭の一文で終わる。
その後は「おれ」ことラボヴィッツが、リポートで全優を取りたい哲学科の女子大生のヘザー・パトキス改めクレア・ローゼンヴァイグのために神を探すトンチキストーリーが延々続く。

「まだ神を探してるのか?」
「ああ」
「全能の存在で、偉大な一なるもので、宇宙の創造主で、万物の第一原因て奴か?」
「そうだ」
「そのとおりの奴がたったいま死体置き場に運ばれてきた。すぐ来い」
たしかに神だった。死体を見るとプロの仕業だとわかった。
「病院にかつぎ込まれた」
「どこで見つかった?」
「ディランシー通りの倉庫だ」
「手がかりは?」
「実存主義者の仕業だ。そうにきまってる」
「どうしてわかる?」
「これは計画的な犯行じゃない。体系ってものがないからな。衝動的にやったんだ」

p260

この際どうでもいいが、犯行が「プロの仕業」なのか「衝動的にやった」「実存主義者の仕業」なのかくらいはっきりさせてくれ。


結局この物語は、ラボヴィッツがパトキスを殺す涙抜きには語れない結末を迎える。

「カイザー、いったいどうやって……」
女の意識は急速に薄れていったが、おれは手遅れにならぬうちにと、一気呵成にまくしたてた。
「一個の複合観念としての宇宙が、真の唯一絶対者に内在する、もしくはその外に在る存在に対立するものとして顕現するということは本来的に、存在していること、もしくは存在すること、もしくは永続して存在していたことと関連を有し、非物質ないし客観的絶対者ないし主観的他者に関する形而下性、運動並びに観念の諸法則に縛られることのない、概念としての無もしくは絶対的無なのである」
深遠な内容だったが、女はこと切れる前に理解したようだった。

p266

西洋哲学の裏側を常に支えてきた〈神〉が究極的な意味では〈存在を持たない〉〈女〉の〈死〉の現場において立ち現れるこのラストは同時に、権力の象徴としての〈ファルス〉としての〈男〉が母親に去勢される願いを常に裏切られ、父親への同化抜きには生きられないことへの暗示であり、男性性の根深い孤独が必然的に暴力と結びつく現実の一面を徹底して書いた驚嘆すべき結末である……たぶん。

筒井康隆「夢の検閲官」

夢の検閲官は午後の十一時半、いささか酔いのまわった足どりで、夢の法廷にあらわれた。
「早く来てくださらないと困ります」先に来て、自席についていた初老の書紀が、これも少し酔った眼を検閲官に向けて苦情を言った。「彼女がそろそろ夢を見はじめるというので、前意識や無意識の方からやってきた連中が、法廷の入口の向こうで列を作って待っております」

p8

この二人の夢の支配人―「検閲官」と「書紀」が、「ひとり息子に死なれたばかり」の(※原因はいじめだった)「彼女」―母親のために夢の内容を「歪曲」するのが話のあらすじ。
これだけ聞くとやや暗い内容を想像するが、そこは筒井康隆。あっと驚いたりくすくす笑っているうちに夢はどんどんあらぬ方向に変わっていく。
夢の改変の様子は文庫本のカバーにも書かれているが、本当に愉快極まるもので、

◯小学校→合掌造りの家屋
(※ただし時間が足らず「屋根の天辺に時計塔があって…八畳の座敷の床の間に黒板のある、変な合掌造りのままで出て行」くことになる)
◯担任の教師→彼女の叔父さん
(※彼は「無意識レベル六」から呼び出される、他にはどんなものが眠っているのだろう)
◯「息子の同級生」→「黒いとうもろこし」◯やさしさ(※彼女は自分にもう少し優しさがあれば……と後悔している)→「一面のメロン畑」

それぞれなぜすり替わるのかの説明も見事(興が削がれるので一番最後に書く)。そして最後の結末がまた素晴らしい。

「ぼくを通してくれて、ありがとう」

p20

筒井氏の持ち味といえばエロ・グロ・ナンセンスの三拍子と思われがちだが、案外こんな抒情的リリカルな作品だって書くのだ。



夢の改変理由
合掌造りの家屋は「彼女の故郷の思い出につながってい」るため。
叔父さんは「大造という名前」の一致から。
黒いトウモロコシは彼女が授業参観のとき受けた彼らの後頭部の印象から。
メロン畑はやさしさの英訳がスウィートネスであることから、おいしく、新鮮で、香りがいい「彼女のいちばんの好物」から。
最後の声は息子のもの。いつまでも現実を改変させ遠ざけるだけではいけないという検閲官と書記の考えから夢に通されたことに対して。


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