あらかじめ奪われた思春期、義務教育とは何か?

2012年 教員時代の日記がfacebookから出てきた。

 カール・ポランニーの思想についての叙述を読んでいて、少し考えが進んだ。なぜ、義務教育に職業体験を入れるのはよくないと想うかについて。
 市場経済を是とするか非とするか。それさえも疑ってもいいものが、学問というもののはずだ。そしてその学問をするための基礎力を養うのが、初等中等教育であると、ぼくは想っていた。誤解だったかもしれないが、自分はそう想って育ってきたし、教師になってからもそう想っていたのだ。
 だから、市場経済の中でどんな部署に適応するかという教育はしなくていいと想っている。大学でさえ、いわゆる就活はできるだけ最終学年までしないほうがいいのに、そこも今では収拾のつかないほど狂っているが。しかし、それにしても中学でそんなことをするとは。
 まだ哲学することさえ本格的に始まっていない少年少女をつかまえて、早くも洗脳するのはやり過ぎだ。今は哲学するための基本的な言語能力や思考能力などを育てる時期なのに。
 ここでぼくのいう学問、哲学とは、とても広い意味で、皆が哲学科に行くべきだと言っているわけではない。自分の生死について自分で疑って自分で道を見つけるということだ。ただそれだけのことだ。
 近代以前ではそれは部族社会の中で必然的に決まっている道筋を辿るイニシエーションだったのかもしれない。しかし、近代以後は、それは極めて個人的な哲学的なものとなるか、それとも何も考えないままにシステムに巻き込まれるか、どちらかしかなくなったように想う。
 いずれにしろ、その個的な道のりには、言語能力や思考能力が必要で、教育はただそれを養うだけでよくて、あとは本人にまかせればいいだけなのだと想う。
 だが、哲学しているうちに、経済バスに乗り遅れることを心配する保護者や、少年少女本人さえも、この考えにはあまり賛成しないのかもしれない。あるいは、これは文系の考えだと一笑されるかもしれない。
 しかし、たとえいわゆる理系であろうと、基礎教養として、これがなければ、それこそ、原発推進を疑わずに支えるだけの魂なき技術者のような存在ばかりが、ゾンビのように増えるのではないのだろうか。

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