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表現する、なんのために?

表現すること、は難しい。
もっと正確に書くと、眠たいとかお腹空いたとか、わざわざ表現と呼ばないような日常的なコミュニケーション、には当てはまらない、繊細で曖昧な心の動きを伝えることは、それがどんなに烈しいものであったとしても、容易ではない。

誰もが知っている小説家や、音楽家みたいに、自分が共感した偉大な作品と同じように、自分の想いも伝わってほしい。しかし、取り組んでいくうちに悟る。あまり才能のある「表現者」ではないらしい。いまいち「伝わって」いないらしい。技量の不足か。内容がややこしすぎるのかもしれない。多くの人に分かってもらうためには、もっと明快に、個人的すぎる要素を削ぎ落とす必要があるかもしれない。だけどそうなったら、いったい何のために表現をするのか。
そもそも自分の人生には、頑張って表現をすることが本当に必要なんだろうか。偉大な作品たちを噛み締められる喜びだけで十分なのではないか。その上、自分もその一員になりたいなんて、ちょっと高望みすぎるのではないか、、、

そんなことを、まあぐだぐだと考えながら、先日観たドキュメンタリーの中で、デイヴィッド・リンチがいいことを言っていた。

ベストを目指さないこと それが成功の秘訣だ

何かをすると言う行為そのものが大切だ

「実」という結果のために行動を起こすのではない

結果はどうあれ 行為を楽しむことが大切だ

やる気が出て アイデアが次々と浮かぶ

そうなれば行為自体を楽しむことができる

行為を楽しめないなら 他のことをするべきだ

David Lynch (『リンチ(one)』(2007) 翻訳:幡野裕美)

思うに、表現という行為のまわりには二種類の時間の流れがある。過程と結果。他者から見ると、外部に現れた「結果」の連続が、経過として認識されるけれど、その裏側にある「過程」の時間、ひとつひとつの結果が生まれるまでの、点と点をつなぐ、外からは見えにくい時間の流れも、そこにはある。
そう考えてみると、表現という行為の捉え方が、少し変わるような気がする。

と、いうような話を昨日、とある場でやったところ「なに聞かされてるんだろって感じ」と鼻で笑われてしまったので、、うーん。感激しませんか、上の言葉。私の伝え方が及ばなかったか、相手を間違えたのか、もう済んだことだし深刻に凹んだり憤ったりはしていないが、やはりモヤモヤするので、リベンジというわけではないですが、こうして書きました。

特に、決して大多数ではない人達に向けて、という時。あるいは「結果」に向けて腹をくくる勇気を失ってしまった時。あるいは自分自身が、どうしても行動より思考を重んじる性格だと気付いた時、行動という実際的な経験を強烈に食らってしまう繊細さの持ち主だと悟った時、など。表現に困難はつきものだ。
表現と向き合う気持ちが切実であればあるほど、こういった苦痛は却って響くかもしれない。そういう切実さは、どうせ百年後はみんなあの世、くらいのリラックスした気持ちと一緒に持ち合わせるとか何とかして、うまく保つ必要がある。

たとえ困難ばかりであっても、そこにある「過程」あるいは「結果」の時間が、人生の一部を充たしてくれることには間違いない。
生きることには、勝利とか敗北とかいう大仰なものは本当はなく、私たちにできることはただ、目の前に与えられた時間を素直に、地道に、嬉しくて有意義なものにすることぐらい、と思う。そのためのひとつの手段として「表現」という手がかりを授かったのなら、目一杯試す価値はある。それは、勝利をもたらすことも命を救うこともない「表現」をわざわざ選ぶような変わり者に生まれついたことを祝福する、ひとつのやり方だ。
というようなことを、いざという時には思い出していきたいのです。

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