見出し画像

さいたま国際芸術祭に行った

2019年に千葉市美術館でやっていた展示『非常にはっきりと分からない』を見て以降、あまりに好きな現代アートチーム 目[mé] が全体のディレクションをつとめているので、行ってきた。

すごくよかったので感想をかく。

見るという体験

たとえば、落ち葉がきれいに並んでいる。

これは誰かが意図して作ったのか?たまたま並んだのか?そういう区別がつかない存在をscaperと呼んでいて、会場やその周辺にはちょっとした違和感があるようなモノやヒトをたくさん見つけることができるのだけど、それが目[mé]や他の誰かの手によって意図して作られたのかそうじゃないのか、確認することはできない。

飛び出して転がったテニスボールたち
地下のかべにいた蝉の抜け殻

そういう思想のもとに設計された一連の鑑賞体験に浸れる芸術祭。

ここでは「これが作品である」という答えを作り手はほんとうにまったく握っていなくて、我々が「見る」という体験それ自体をすべてそのまま芸術体験に変えている。

この芸術祭の会場を出たあとさえ、その視点1つだけですべての対象から作品性を想像することができるという意味で、対象範囲が全世界の巨大スケールすぎる体験だ、震えてしまうよね心が。

そんなところにある靴、かたっぽ

これを書いている今日の時点ですでに2回行ったのだけど、1回目にあったはずのものが2回目には無くなっていたり、その逆も然り。何回も行きたくなるし、行くほどに世界に対する作品と自然の境界が無くなっていく。目[mé]の作品は毎回そう、すきすぎる、、、

建物をぶち抜く動線

会場は「旧市民会館おおみや」という1つの建物。

その中に「動線」と呼ばれるアクリルで囲われた通路が引かれているのだけど、その引き方も非常にさいこうで、建物の壁やガラスを思いっきり斜めに貫いていたり、大ホールの客席から舞台裏まで通していたりする。

このダイナミックな動線によって“通常利用”の範囲にとどまらない視点や目線で会場を回ることになるので、より世界の隅々まで目を行き届かせる体験を半ば強制的につくっているのかもしれない。

ダイナミックすぎる
ガラスをぶち破っている、つよすぎる

これは目[mé]の南川さんのお話を直接聞いたときに言っていたのだけど、動線を囲う透明のアクリルフレームは「窓」なのだという。

窓なのでその向こう側がすべて景色になる、つまり外側をすべて見るべき対象に変える役割を持つ。手に持ったペットボトルを「見る」ことは実はすごく難しいけど、窓越しに見ることによってちょっと客観的な存在になる。


なるほど、たしかに。

「対象を見ている自分側」と「対象が存在する景色側」その境界はもしかするとあいまいなのだろう。手に持ったペットボトルはもちろん私の持ち物だし、隣を通る自転車はちょっと避けないとぶつかるかもしれないし、落ちているハンカチは拾って先を歩く人に渡してあげた方がいいかもしれない。

明確な境界がない世界において、まわりにあるモノやヒトはまあまあな確率で「私に関係があるかもしれない存在」で、高い純度でそれらを客観視するのは、言われてみるとけっこう難しい。

帰り道考えていたこと

同じものを見たとき、そこに違和感をおぼえる人もいればそうでない人もいる。また別のものを見たときには、それが逆転したりもする。

人はおそらく「世界の自然状態」のようなものを無自覚的に脳内で定義していて、そこから逸脱したものに対して違和感をおぼえ、「それは何故なのか」「背後に何があるのか」と理由や物語を想像したりする。

その自然状態はたぶん、ほとんどの人で大部分共通していて、だからこそ社会はそこそこ秩序を保つのだけど、もちろん完全には一致しなくて人によって微妙なずれがある。そのずれの部分が、同じものを見ても人によって違和感がうまれたり、そうでなかったりする要因なのかもしれない。ちがうかもしれない。

だとしても、だからなんなのだということではある。


会期中もう1回くらいは行っちゃうかな、たぶん。

読んでくれてありがとう、またね


あそ / aso

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?